車内にて

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(72)
「車内にて」
「わたしがこういう女だということはわかっているでしょ!どうしてあなたがちゃんと話してくれないのよ」若い女性の甲高い声が車内に響きました。
乗客はその声に驚いて顔を上げました。
平日午後8時過ぎの郊外のベッドタウンに向かう電車は仕事帰りの客でいっぱいです。サラリーマンやOLは眠ったり、スマホをいじったりして時間をつぶしています。
だから、満員でも、車内は静かで、ときおり話し声が聞こえるぐらいです。
しかし、20分ほど前から、女性の小さな声が聞こえていたのですが、みんな、どこかで女性同士が話をしているぐらいしか思っていなかったはずです。
しかし、その興奮した声を聞いて、「そうか。さっきからぼそぼそ聞こえていたのは、電話で話していたのか」と納得したのですが、「それにしても、何をそう興奮しているだろう?」と興味がわいてきました。
というのは、最近は、車内で大きな声で電話をする者がいなくなったためなのでしょう。
ただ、それも度を過ぎると、他の乗客が顔をしかめるか、咳払いをして、自分の感情をあらわすものですが、今は、話の雰囲気から、夕ご飯を食べながらテレビドラマを楽しむような気分になっていたかもしれません。
しかし、その女性は、ドアのそばに立って、車内に背を向けて話していますから、乗客の様子はわかっていないはずですし、ひょっとして、ここが電車の中であることも頭から消えているかもしれません。
「あなたが電話してくれたら、父が裁判をするなんて言わないはずよ。しこりを残さないようにしたほうがお互いのためだから」
「えっ、どうして!」どうやら、話は平行線のままです。
その後、女性は、どんどん興奮して、「ご両親といっしょに暮らしたくないと正直に言ったことがそんなに悪いことなの?ほんとにあなたという人は!」
そのとき、電車は駅に着いて、ドアが開きました。数人降りましたが、乗ってくる者はいなく、ドアが閉まりはじめました。
すると、その女性があわてて降りようとしました。体のほとんどは出たのですが、腕が残って、スマホが車内に落ちました。
女性は、何か叫んだようですが、車掌は聞こえなかったようで、電車は動きはじめました。
乗客は、まるで、時限爆弾のように、床に落ちたスマホをじっと見ました。
そのとき、そのスマホからコールが鳴りました。立ちあがって後ずさりする者さえいました。
コールは止みません。すると、60を過ぎたかと思われるサラリーマンが、それを拾って、電話に出ました。
「もしもし。お嬢さんはあわてていらして、電話を落として電車を降りられました。
はい、はい。ところで、どうしても一言言っておきたのですが、男は引き際が大事ですよ。
えっ?知っていますよ、社内の全員が」
「ちがいますよ。大きな声で話されていたので、聞こえたんです」
「何を言っているんだ、きみは!わたしはね、来年定年だが、1000人以上の社員を育てあげた実績があるんだ。もっと人生の先輩の言うことを聞くもんだ!」そこまで言うと、察リーマンは、どっと床に崩れおちました。
他の乗客はあわててそのサラリーマンをシートに寝かしました。
そして、もう少し若い、50代のサラリーマンが、「もしもし、今気分が悪くなったので休んでいますがね。失礼ですが、彼女の新しい人生を祝福するためにね、彼女が望むことをされたら・・・」と電話で話しました。
「えっ、何なんだ、その言い方は!くそ若造、おまえみたいな者が増えたから、日本はだめになったんだ!」そのサラリーマンは、スマホを床にぶつけようとしました。
すると、30代のサラリーマンが、スマホを奪い、電話に出ました。
「すみませんねえ。関係ない者が出まして。ただ、女性が興奮されていましたので」
「ええ、ええ」
「お言葉ですが、みんな善意でしたことで」
「そう怒らなくてもいいでしょう!聞かされた身にもなってくださいよ」
「だから、善意だと言っているでしょ!わからない人だなあ」
それから、20代の男、60代の女性、20代の女性と次々と話しました。
やがて、電車は終点に着き、乗客は、家族が迎えに来た車に乗りこみました。
スマホは、忘れ物として駅員に渡されましたとさ。

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