社会人

   

今日も、ムーズがやってきた~あなたと漫才を~

「社会人」
「秋深し 隣の人は 何する人ぞ」(やったかな?)というわけで、「社会」の次は、そこにいる人、つまり、ぼくら「社会人」を考えようか。
朝日新聞の朝刊に、「折り折りのうた」という、世界中のあらゆる詩や短歌・俳句の全文、一節を、大岡信(まこと)が解説するコラムがあるけど、5,6年目に、こんな短歌があった。「近所に葬儀があれば、いつもは、軽く会釈する人がいない。なぜなら、今日は、その人の葬儀だから」という意味やった。なんでもないようやけど、ぼくは、それを読んで、涙が出てしようがなかった。もちろん、当時も、一人では生きていけへんのは、ようわかってたんやけど、ずっと事業をやってきたから、ものすごく忙しく、孤独やったと思う。一人の人間として、穏やかに、社会にいてへんかったかもしれん。でも、普通の日常生活に、どこかであこがれていたんやろうな。それで、なんでもない表現に、おろおろ来たんやと思う。この作者は、相手の名前ぐらいは知っているやろけど、日頃はつきあいはなかったやないか。ときおり顔を合わす程度やけど、今日は、その人の冥福を祈る気持ちがものすごく出ているような気がする。それが、社会やろな。
そんなに感動したんなら、なんで、原文を出さへんのかて?そこやがな。それを切り抜いて持っていたんやけど、どっかへ行った。しゃあないから、「折々のうた」の単行本を、45冊買うて、調べたんやけど、わからへん。何でも忘れたら、高こうつくという教訓を学んだやけど、最近は、その教訓も忘れてるわ。どなたか教えてください。
「ナニワのモーツアルト」と言われているキダタローは、上沼恵美子と一緒で、関西受けの毒舌で、ようテレビやラジオに出ているけど、こんなことを言っている。「知り合いでも、一緒に鍋をつつくには絶対いやや。人間は、ばい菌だらけやで。つばも入るやろうが」
そうやな。誰や知らん人が、捨てた薬のカプセルのカラでも、きたないと思うやろ。でも、同じ会社の社員や近所の人はもちろん、初対面でも、意気投合すれば、鍋つつくもんや。キダタローは、別にして。要するに、みんな、話したいんや、近づきたいんや。
何か事件の被害者の家族は、犯人に謝罪を求めるやろ、端(はた)から見ると、今さらゆう気がしていたけど、謝罪を受けて、自分を納得させんと、社会で生きていけへんからや。恨みだけではつまらんし。感謝の言葉も、そうゆう役目があるんやろ。それが大人の知恵や。だから、社会は、大人の生活とゆうこととやし、文化ともいえるんやろな。「ポッと出」の国とちがうところや。子供は、大人を見て、生きていく術(すべ)を学ぶんや。学者の中には、「若者文化」ゆうもんはないとゆう人もいる。
ところで、今の子供もたいへんやなと思う。子供のときから、ケータイ、パソコン、ウォークマン、なんでも持ってるわ。大人になったら、あれ買おう、これほしいゆうもんがない。どないするんやろ。夢も、一杯あるのが、社会やけど、大人が、夢もたんとあかんような気がする。

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