SAY少々納言、山を下りる
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「SAY少々納言、山を下りる」
夏になり、山荘にて昼寝三昧で過ごしていたところ、どこかで我が名を呼ぶものあり。
耳を欹(そばだ)ててみるに、その訛声(だみごえ)は、今都で名前が膾炙(かいしゃ)している「旨加棒 喰界」という坊主なりし。
別に新たなことを言わずして、千年余の昔に先達が艱難辛苦(かんなんしんく)の末に得た悟りを、「三無鏡」などと名前を変えている輩(やから)なり。
さりとて、その時代の民を救うために、悟りもその時代に合わすのはあらまほしきものと言えるので、まずは大目に見るなり。
山に篭(こも)ってはいたが、遠く陸奥(みちのく)で、地が揺れ、海が暴れ、多くの命が奪われたことは、我が世話をする女房より知るところなり。
その惨状を聞くにつれ、涙とどまるところを知らず。千年余の昔に鴨長明が著わしたことなどもう起きないなどと思わず、一歩一歩進むべし。
また、原子力と申すもの、檻(おり)を破った獅子のごとく、人に育てられた恩を忘れ、人に牙を剥くものと肝に命ずべき。
さて、「白露」も過ぎたので、この目で人心を確かるべく、山を下りたり。
ときおり、年老いた女、黒々としたもので顔を隠したるを見受けたり。まるで蟷螂(かまきり)のごとくなり。
顔を隠す奥ゆかしさゆえなら、それも仕方なしと納得したが、聞けば、シミなどを防ぐためのものと知れり。
年より若く見せたいがために、公衆の面前で、あのような奇怪な姿をするのなら、若い女が、「見せパン」と称して下穿きを見せたり、「見せ乳当て」と称して、上半身を裸同然の格好で歩くのと変わるところなし。
また、書を読む時間を惜しんで、化粧を学び、「ファンデーションは、横に伸ばしちゃだめ。それは昭和のやり方。縦に伸ばすのよ!」などと、化粧したる男の話にうなずくのも、まことにおぞましきなり。
自分を見せびらかすことと、言わずもがなのことを言うことに、徒(いたずら)に時間を使うのは恥ずかしいことなり。
女房より、都では誰もがツイッターというものをしたりと聞けど、最初は、「つい言った」と聞きまちがふと、みな大笑いす。
しかし、調べるにつれ、そうまちがいではないと思うようになりき。
いかでならば、ツイッターは、「さえずる」とか「無駄話をする」、「なじる」という意味があればなり。
これは「見せパン」や「見せ乳当て」どころの騒ぎではないと心得るべし。いかでなれば、丸裸で外に出づるなればなり。
これが習ひ性にならば、世の箍(たが)が外れ、憎しみが憎しみを呼ぶこと必定なり。
「この世は、言うたもん勝ち、したもん勝ち」と思ふ若者が増えてきてゐることが、その証左なり。秋葉原事件などの個人テロも、すべて「愚痴る」表現なり。
また、放言で非難さる大臣などがいるが、これも、「さえずる」習ひ性のためなり。
自分のことを言ふ風潮をすぐに改めるべし。自分のことを言ふには、責任を取る覚悟がいると思わなからずならず。
小説、映画、音楽などは、自分の思いを述べるものとなれど、そこには、形式、思慮、熟慮、謙譲などの衣を着せたり。
さて、さて、疲れしかば、同道する女房とスタバでおしゃべりしたあと、日焼け止めの防止を被って、静かに山に帰るとするや。