縄張り(1)
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「縄張り」(1)
映画ビジネスは、アメリカ資本が、世界を席巻しているようや。
日本には、フランスやイタリアの映画が来なくなった。「太陽がいっぱい」、「悲しみよ、こんにちは」、「ひまわり」、「ブ―べの恋人」などは、青春そのものやな。
当時、アメリカ映画ゆうたら、西部劇ばっかりで、「文化の香り」がないように思われていた。
映画輸入会社も、今は、儲かるもんしか入れられへんのやろ。これは、アメリカ映画やけど、「ブッチとサンダンス」てな原題(「正太郎と源三」みたいや)を、「明日に向かって撃て」などと、日本向けの題名で勝負するとゆうこともなくなった。
ぼくは、今、ブラジル人が監督した「モーターサイクルダイアリー」が見たくてしょうがない。
大きなところではやっていないから、調べてるねん。
ところで、日本映画は、どうなっているんやろ。ビートたけしが、黒澤明を目指しているんか。
そうしたら、「何が監督よ。お笑いに映画なんかできないわよ」とゆうているのは、映画評論家と称している「おすぎとピー子」や。
また、山城新吾も、たけしが作った「座頭市」に、「タップダンスなどを入れるのは、勝新太郎への冒涜や」ゆうている。
たけしも、「映画評論家ゆうのは、映画会社から、金をもらって、映画の宣伝しているだけやないか」と反発している。
ぼくは、たけしの映画を見たことないけど、みんな、「映画評論家」としてのプライドで、発言しているのやろか。
そこには、ねたみやそねみがあるような気がしてしゃあない。
夏目漱石が、「草枕」に書いたとおりや。「・・・兎角(とかく)に人の世は住みにくい。・・・(しかし)人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。」
だから、ねたみやそねみは、人間がいるところどこでもある。「老若男女」にかかわらずや。小学校のクラスから、近所、会社、国まで、いや、国同士まである。
スリッパを隠したり、うわさをたてたり、怪文書を流したり、失脚を図ったり、戦争を引きおこしたりする。
こうゆうもんが、もともとついているのを、「心」ゆうのんやろか。
あざけりや憎しみなど、ねたみやそねみの兄弟姉妹は、いっぱいいる。「いとこ」や「はとこ」もおるやろ。
ぼくは、そんな兄弟姉妹の母は、「縄張り意識」やと思う。それが、いろいろな子供を生んでいくのとちがうやろか。ものすごい多産家族や。