道端の花
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「道端の花」
前回、このシーズンになると草刈りに頭が痛いとゆうた。家の草は自分で始末せんとあかんけど、公の場所は共同作業や。
きれいに散髪してもうた土手に黄色や白の花がところどころに残されている。せっかく咲いているのだから、しばらく残してやろうと思う当番さんがいるのやろともゆうた(外来種の花もあるので、早く処分しないと影響が出るとゆう専門家もいる)。
その花も、今は茎が5,60センチにもなって、荷造り用のヒモで倒れんようにしてもらっているから、毎日気にかけている人がいるんやろな。
それを見ていると、道路の片隅にある花束を思いだした。
そうや、交通事故で誰かが死んで、近親者が手向けた花束や。第三者は、目の片隅でちらっと見て、「ここはまっすぐやのに、どないなったんやろ?」とか思う。
4,5年前近所の広い道路の四つ角で、えらい事故があった。その角にあるガソリンスタンドの前の電柱に車がぶつかって、2人死んだ。
その日から、「ここで葬式するんかいな」ゆうぐらい花が集って、歩道にも何やかや書いてあった。
通りすがりの店の「閉店のお知らせ」でも、わざわざ車を止めて見にいくほうやけど、あの電柱がなかったら、スタンドの事務室の大きな窓ガラスに飛びこんだのはまちがいないし、あの花束攻撃にも閉口していることがわかるので、「野次馬」は遠慮した。
先日知りおうた若者から、「2人はヤンキーですわ。あの交差点はすり鉢みたいになっているのに、むちゃくちゃ飛ばすもんやから、バウンドしてぶつかったんですわ。
同じ教習所でしたが、教官も、『あいつらは何かするで』とゆうていましたわ」と聞いた。
そして、「シートベルトをしていなかったから、脳みそが出ていたそうですよ」とも言った(シートベルトの有効性は認めるけど、それとペナルティを課すのとはちがうとゆうぼくの持論はやめといた。「このおっさん、カタるなあ」と思われたくなかったので)。
そうゆえば、以前ほどやないけど、今もそこに花がある(スタンドのほうも、「やめてくれ」とゆいたいけど、あんな連れやしな)。
またまた、そうゆえば、歌手のZARDが階段から落ちて死んだ病院にも、命日になると、どっさり花束がおかれるので、病院側がやめてくれとゆうたようや。
尾崎豊が死んでいた他人の庭にも、そんなことがあるようで、その持ち主は、しぶしぶ庭も部屋も開放したとゆうことやけど、何でそんなことをするのやろか。
6万年前のネアンデルタール人も、死んだ人の横に花を手向けていたようやから、悲しみを花であらわすのは人間のやさしい心とは思うけど、他人の迷惑を考えずに、「人を弔う心は崇高や。関係ないもんは黙ってえ~」では、な。
2,3年前にも、近くのホームセンター前で事故があった。主人が死んだようで、花束の横に、「ご迷惑ですが、しばらく花をおかせてください」と奥さんがきれいな字で書いていた(今は潅木と潅木の間に小さな植木鉢があって、小さな花が咲いている)。
何かで一等賞になると、「主宰者から花束が贈られます」となるから、花は権威づけにも使われる。それで、花束は有無をゆわさない武器になるんやろか。
それから、気に喰わんのは、選挙演説をするときに、ビールケースをひっくりかえして、そこに乗るやろ?
「どぶ板」のイメージやろけど、あれも、ビール会社がやめてくれてとゆうたことがある。介護施設が送迎するときも、あれを使うけど、相手がいやがることをパフォーマンスでするな。
大体あれはビール会社のもんや(最近はスーパーのカゴだけじゃなくて、カートまでもってかえるもんがいるんやてな。なんでかしらんけど、ぼくの店にも、カゴが2,3個あるけどな)。
とにかく善意や思い込みは始末が悪い(それが集るともっと悪い)。少しでも善意をお持ちの場合は取りあつかいに注意してもらいたいもんや。
献花台も、最後には誰かが集めて捨てているんやろ。これ以上ゆわんとこ。「おめぇーたちは人間じゃねえー」と中村錦之助みたいにゆうやつもいるからな。
こんなことをゆうのは、花束なんかもうたことのないひがみやろか。もっとも道端ではもらいたくないけどな。