区別
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「区別」
近所の上品なおばあさんが、「今、テレビでウッジュさんの話を聞いていましたの。役に立ちました」と話しかけてきた。
「それはよかったですね。どこのおじゅっさんですか。瀬戸内寂聴かだれか?」とたずねると、「いいえ、タイガー・ウッジュです」とのこと。
今やこんな片田舎でも、ゴルフなんか興味のない人でも、タイガー・ウッズのことで持ちきりや。
そして、上品なおばあさんは、「それにしても、あまりに人数が多すぎます」とつけくわえ、「金持の人ほど身を慎まなくては」とゆう教訓をのたもうた。「わたしは年金暮らしですけど」。
前回、「二個一」で、どんなことでも、たとえ自分の人生でも、表と裏があるとムーズした。
鳩山首相の母親は、兄弟に仲よく毎月1500万円を渡していたのがえらいとゆうことやった。
金持の家では、「相続」が「争続」になるから、平等が原則なんやな。
庶民は、何億、何十億とゆう大金には無縁やけど、ホームごたつの上のみかんでも、平等に分けんとあかんとゆうことが裏から読みとれる。
タイガー・ウッズの場合はなあ、これは、ぼくには手に負えん。
「女がいてもええけど、わたしにも、その女とおんなじことしてちょうだい!」とゆわれた向きもあろうが、「ブルータス、おまえか」で有名なローマ史上の最大の英雄カエサル(シーザー)は、ローマ史上最大の好色家で、将軍であろうが、部下であろうが、その嫁はんに次から次へと手を出したそうな(クレオパトラにも子供を生ませた)。せやけど、誰一人不満をゆわなかったそうや。そんな金と体力はないし、あっても、そんなことはできそうにない。
あちこちから不満続出のタイガー・ウッズやけど、そこから、上品なおばあさんのように、人は身を慎むことが大事やと読みとるぐらいや。
せやけど、表と裏が分かりにくいときがあるから、みんな悪い、みんなええと思いがちやけど、そんなことはあらへんで(自分の人生にも、ええことがいっぱいあると思うことやな)。
外出先で、「あの人、あいつに似てへんか」とゆうと、「全然似てへんわ。としよりは、そんなことようゆうわ」と笑われる。
老化の一種かもしれへんけど、昔からそんなとこがあった(顔の判別がでけへん病気があるらしいけど、ぼくもそうやろか)。
子供のとき、どこかの店でもろうてきたうちわに石原裕次郎がいるとゆうと、「ちがう。和田浩治や」とまわりから訂正された。八重歯もいっしょやし、ぼくには区別がつかへんかった。
最近も、「エクザイル」ゆうグループにサングラスで歌っている歌手がいるけど、てっきりボクシングの亀田興毅やと思うていた。
あれ、別人らしいな(リングでは、「アホ、ボケ、殺したろか」ゆうているのに、えらいロマンチックな歌を歌うのやと思うていた)。
見慣れたらそんなことなくなるのやろか。
昔はアメリカ人とドイツ人の区別がつかへんかったやろ(「生外人」なんか見たことなかったもんなあ)。
西洋人から見たら、日本人と韓国人、中国人の区別がつかんらしいで(ニュージーランドにいた次女が、「韓国人か」とようゆわれたらしい)。
アメリカのHなビデオに出てくる日本人は、裸やけど、メガネをかけたまま、ベッドの上で、「作業」をしている(さすがにカメラはぶらさげてへんけど、「彼は、スケベーな日本人です」とゆいたいだけなのかしらんけど、あんまりおもろない)。
日本人から見たら、相手が韓国人か中国人かは、目のつり具合だけでなく、なんとなくわかる(目の整形が大流行りやけど、一重は、人間は元々二重で、アジアに合うように進化したらしい。それなら、二重にするのは、アジア人としてもアイデンティティを消すとゆうことやな)。
そうゆうわけで、毎日おんなじ生活やなどと思わずに、その裏にある新しいことを見つけるのが人生の喜びちゅうもんや(見つけにくいことはあっても)。
ところで、最近ひらがなの「や」と「な」の区別がつかへんことがあるけど、それは別の病気やろか。