神隠し
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(51)
「神隠し」
「民江、気をつけていくんだよ」夫の義男は、荷物を点検する民江に声をかけました。
「大丈夫よ。撫子(なでしこ)山岳会に入会したい人の実技テストを立山黒部アルペンルートでするだけだから、危険なことはないのよ」民江は笑顔で答えました。
「そりゃ、わかっているよ。ぼくが定年になってからだから、おまえは、もうかれこれ10年以上の山登りをしているんだから」
「ありがとう。でも、初心忘れべからずですから、気をつけますよ」
「いや、ぼくはそんなことを心配しているんじゃないよ。最近、山に登った人が、大勢行方不明になっているじゃないか。今日の新聞にも、75才の女性が槍ヶ岳に登ったまま帰ってこないと出ている」
「今日もですか。もう30人はいるわね。しかも、60代,70代の人ばっかり。足取りがぱっと消えるなんてミステリーね。仲間が集まれば、みんなその話ばかり。
神隠しにあうのは、だいたい子供なのに、どうしておばあさん、おじいさんがあうのって」
「しかも、あちこちの山だというじゃないか」
「とにかく、私たちは、仲間から離れないようにしようと決めていますから、そんな心配はありません」
義男は、それを聞いて安心したようにうなずきました。
夫が納得したので、2日分の食べもののことを夫に説明しました。夫はまったく家事ができないからです。
2日といっても、新宿から深夜バスに乗りますから、バスで1泊します。そして、翌朝から山に登るのです。
新宿に急いでいくと、参加者がすでに待っていました。1年に1回の行事ですから、みんなはしゃいでいるようです。遠くからでも、それがわかりました。
「会長、ご苦労様です」という声が聞こえました。副会長の義子のようです。
「すみません。遅れちゃって」民江は走っていき、頭を下げました。
「ご主人のお世話がたいへんだったのでしょう」誰かが言いました。
「主人は絶対帰ってきてくれと何度も頼むのよ」
「うちもそう。今までは、私が山に行くと、羽を広げていたのにね」
「しかし、へんな天狗がいたものね」
「私たちは神隠しのお年頃だから、みんな離れないようにしましょう」
「はーい」参加者18人が次から次へとしゃべります。
ようやく時間が来て、バスに乗りこみました。
翌朝、大町に着き、朝食を取ってから、立山に向かいました。そして、休憩ごとに民江などの幹部が技術などを教えました。それから、立山に登りました。入会希望者全員の合格が決まりました。
その日は、室堂のホテルに宿泊しました。民江は、登山の間は、みんなが事故にあわないように無我夢中でしたが、翌日はほっとして、一人で近くを散歩しようと思いました。
ああ、なんて気持ちがいいこと。民江は思いっきり空気を吸いこみました。
すると、今までの人生がよみがえってきました。夫は商社勤めが長く、育児などはすべて民江に任せてきたのですが、定年になると、今までの覇気をなくして、じっと家にいるだけです。
私の人生はこれでよかったのかしらと思うようになりました。それで、山登りに夢中になったのです。
自分の前に高くそびえる山。それを、自分の技術を磨き、仲間と知恵を振りしぼって征服する喜び。まさにこれが人生のように思えるのです。
すると、大学時代に恋愛していた竜彦の顔が浮かびました。ああ、若いわ!そりゃ、そうね。50年以上だもの。
竜彦は、当時から山が好きで、民江を山に誘ったのですが、両親が認めず、そのまま別れてしまったのです。
もし、彼と結婚していたらと思ったとたん、どこからか風が強く吹いてきて、民江をどんどん運んでいきます。
どうしよう!止まろうとしても止まれません。そのまま林の中へ連れさっていきます。木につかまろうとしてもできません。
しばらくすると、地面にあいていた穴に落ちたかと思うと、そのまま下に落ちていきました。あまりに早いので、すぐに気を失ってしまいました。
「民江さん、もう大丈夫ですよ」という声がします。ようやく目を開けると、自分ぐらいの年齢の女性が笑顔で覗きこんでいました。気がつくと、その後ろには、高齢の女の人や男の人も笑顔で見ていました。
「ここはどこですか。私はどうなったのですか」と聞きました。
「あなたは、別の人生を生きなおそうと思っていたから、ここに来たのよ。今までことは頭から消えたので、これから新しい人生がはじまるのよ」
まさか。今日、竜彦さんと山に行く約束をしたところなのに。