人生のボタン
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「人生のボタン」
人生とは、先に待っている不幸に追いつくこと
どうや、ぼくが考えた格言は。ゲーテや武者小路実篤と遜色ないやろ。
そんなん負け犬の遠吠えやてか。いいやんか。「君子危うきに近寄らず」と「虎穴に入らずんば虎子を得ず」のように、格言、ことわざはなんでもありやから。
昔、大手の葬儀屋が、「医学が発達して、われわれの業界は不景気や」と嘆いていたけど、
医学が発達しても、人はいつか死ぬ(その「いつか」が、本人もわからんほどはるか先やけど)。
そうゆうわけで、「こんな不幸なことばっかり続くんやったら早う死にたいわ」と嘆くとしよりが多いけど(その子供も、心ではそう願っているかもわからんけど)、よう聞いたら、長生きはしたいけど、ぽっくり死にたいだけのようやな(医者に「そんなにうまくゆくかいな」とゆわれて頭掻いている)。
知りあいのおばあさんは、昔からグッチのカバンが好きでいっぱいもっている(格差社会とゆうけど、昔のほうが格差があった。そのおばあさんは、生まれてこの方、自分で頭洗うたことない。髪結いさんにしてもらうのや)。
せやけど、ムーズにお出ましいただくのは、グッチどころかグッタリしているばあさんばかりで。
「ばあさんか。こっちへお入り。おまはん、ケータイの使い方わかったか」
「誰やと思うたら、わたしの甥やないか。大体わかった」
「ほな、ぼくにかけてみて」
「ちょっと待ってや。1番を押してと。次はこれやな」
「ちがう。受話器を上げる絵や。緑色の」
そんなこんなで、ぼくが後見人になっている叔母にケータイを教えつづけた。
入院すると、必ずいるからな。ところが、これが難事業や。新しいことの記憶は、「スパイ大作戦」みたいに24時間もたへん。
さらにむずかしいのはメールや。だんだんしゃべれなくなる(主人公に追いつめられた進藤英太郎みたいに、「テッ、テッ、テッ」ゆうて、さっぱりわからん)。
「メールアドレスゆうのがあってな。まあ、ケータイの住所みたいなもんや」
「そうか。ここは西宮市・・・」
「ボタンも、おばちゃんとおんなじように、妻、母親、町内会の当番、あっちゃこっちゃの金集め宗教の平会員と、一人で何役もするのや」
「・・・・」
好きな「御座候」がほしくなったら、「ご」、いや「こ」でええわ、それを送らそうとしているけど、メールはだめやな。
こっちもいらいらして、「おばちゃん、これ電話もできるんやで」とゆう始末や。
加藤周一のような天才でなくとも、90の手習いで、サッサとメールするもんもいるやろ。
なんでこんな差が出るのやろ。生来の頭のよさもあるやろけど、自分で必要と思うかどうかやろな(ぼくも、iPodみたいなもんはさわりたくもない)。
せやけど、人生でいろいろ学んできている。
「わたしも不幸やけど(夫と子供二人に先立たれている)、代々の民生委員も不幸や。
みんな、『かわいそうな人を助けてあげます』」てな顔でやってくるけど、最初の人は、主人がパトカーにぶつかって死んだ。2人目は、娘が40で離婚してかえってきた。三人目は、姑の世話でふらふらや。今のもお高くとまっているけど、何が起きるかわからんで」
せやけど、その民生委員が来ると、「お世話様でございます」とものすごう愛想がええ。
腹で何思うていても、ヨイショして人をうまいこと使うこと。これが生活の方便やと教えてもうた。
おばには、ケータイのボタンを、この例で教えたろ。