一年分

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「一年分」
戦後すぐに再開されたプロ野球で、優秀選手になったら、生きた豚やニワトリをもらったそうや(その日は、家族で、舌鼓を打ったんやろな)。
庶民も、嫁入りの着物などを持って、百姓に頭を下げて、米に変えた話を聞く。
「燃料サーチャージ」でゆうたけど、ぼくらも、小学校、中学校の修学旅行には、自分で食べる米を持っていった。
昭和30年代でも、庶民は、金もないけど、物もない時代やった。
子供は、いつも腹が減っていた。レンガで仕掛けをして、スズメを取ると、おばあちゃんが、その場で「おやつ」にしてくれたもんや。
家で集まりがある場合は、さっきまでそこらへんをうろついていたニワトリが「ごちそう」になったけど、さすがにそれは、ぼくがおらんときにした(ただし、庭の柿の木に、裸のニワトリがぶらさがっていた。子供のとき、首を切られたニワトリが逃げているのを見たから、「かしわ」が食べられへんとゆう人は多い)。
母親は、そんなことは絶対できんかった。「かしわ」は、もう店で買うもんになっていたからな。
金もないし、店でも売っていないとなると、家族のために、自分でやらんとしゃあないのが生活とゆうもんやろ。
その後、経済が成長して、物々交換から、貨幣経済、信用経済となり、現在えらいことになっているとゆうわけや。
ところで、大揺れの大相撲でも、プロ野球でも、金星を取った、ホームランを打ったゆうては、米一年分とかビール一年分とかが贈られますゆうて放送がある。
あれは、企業のコマーシャルやけど、一年分の量は、どうやって決めるのか前から気になっていた。
どこかが、100人ぐらいに聞くのか、消費量から割り出すのやろか。
自分は、何を一年でどれくらい使うかを知っておくのは、こんな時代やから大事やと思う(それに、「平均余命」を掛けたら、死ぬまで使う量やけど、何で手帖にそんなことが書いてあるのやろ?)。
最近、スーパーや、スーパー銭湯とゆわれる大型風呂屋が、客の心理を掴もうとして、3リットルや5リットルのガソリン券を配っている(アメリカでは、一等が、「生涯ガソリン無料」とゆうのがあるようようけど、ほとんど当たらないもんより、こっちの方がありがたい)。
「何の一年分が一番ほしいか」と考えることは、「何のために働いているか」に等しいことや。
ところで、アメリカ人の25%は、他人の不幸に同情しないとか、80%は、シャワーのときにオシッコをするとかゆう結果があるけど、他人が生きようが死のうが関係ないわと思うもんでも、見もしらん人が気にかかることもあるやろし、「物事はついでや」と習慣的にやっていたもんが、こんなことをするのは、紳士・淑女やないと思うときもあるやろ。それに、年令によって変ってゆく。
それでは、何が一年分ほしいかと聞かれたら、若いときは、「お持ちかえり一年分」と答えたやろか(田舎もんが、何カッコつけてるんやてか)。
今やったら、ティッシュは100箱あるしなあ(車検2台でもろうた)。
そうやなあ、それでは芋焼酎にします。湯割りで月3本飲みますから、36本ください。ところで、「現金一年分」はだめですか。

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