方言
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「方言」(1)
この前から、JRの事故が続いている。確か、40年ほど前、世界中で、飛行機が、立てつづに落ちたことがある。富士山を背景に、落ちていく飛行機の写真は、世界の新聞に載った。あの時は、どないなっているんやろ、ひょっとして、宇宙人のしわざかとゆわれた。
今度のは、組織のほころびだけでなく、車が、踏み切りで立ち往生したり、置石されたりと、不幸が不幸を呼ぶ典型やな。
大事故の後、同じ福知山線やけど、ずっと北のほうで、年寄りが、踏み切りに、軽トラをほったらかしにして、逃げた。遮断機が下りたんで、上げようとしたときに、電車が来たんで、怖くなったんやな。
ピアスをした兄ちゃんが、テレビのインタビューを受けてたけど、「トラックが、『みどこ』に落ちてましたわ」ゆうてた。ぼくは、事故のことより、その「みどこ」とゆう言葉を久しぶりに聞いて、苦笑いしてもうた。
なんでやゆうたら、ぼくも、その地方(北摂・丹波)の生まれやけど、「みどこ」ゆうたら、「溝」のことや。「こ」はどんな接尾辞や知らんけど。
要するに、ぼくの生まれた地方は、「ざ行」をあんまりゆわへん。「だ行」ですます。言葉は、節約される性質を持ってるから、わざわざわけんでも、通じるから、「だ行」は、「ざ行」を兼ねるんやろ。
「雑煮」が、「どうに」、「象」が「どう」になる。田舎におるときは、それが、わからへんかったけど、都会に出て、どんなに恥ずかしかったか。
東北の人が、東京で、ズーズー弁を笑われて、話ができんようになったとよう聞くけど、あの気持ちは、少し分かる。
「そりゃ、『しんどう』やなくて、しんぞう(心臓)やろ」とさりげなくゆわれたら、人格を否定されたとゆうより、人格がないような気がしたもんや。
この混同は、和歌山が一番有名や。昔、大阪で、ある警官が、同僚を、「あいつ、和歌山やさかい、『ハダードランプ』いいまんねん」と笑ろてた。
言葉は、都を中心(そのころは、「大阪」、いや、「大坂」やな)に、同心円で広がるんやて。
しかも、昔の言葉が残っている。「あつかましい店や」は、「この店は、ようはやっている」、「今日は、あつかましかった」は、「今日は、忙しかった」や。落語や講壇には、そうゆう言葉が出てくる。
それで、ピアスの兄ちゃんのことやけど、ぼくの息子より若い子供に、田舎の言葉が残っているのは、うれしかったけど、都会に出たら、気ぃつけるんやでと声をかけたかった。
兵庫県南部にしかない「~しとってや」を残してや。そして、関西弁の標準語(?)と、鹿児島弁を土台にした日本の標準語もしゃべられるようになるんやで。
方言について、次回も書く。お前の文章を読むのは、「あたしっとい」(徒《あだ》にしんどい、か?)なんてゆわんといてな。「ちーとま」(ちょっとの間、か)読んでや。