人の風景100選

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「人の風景100選」
教科書に載るような人は重箱の隅をつつくように調べられている(それでもわからんと妙は学説が出る。源義経は大陸に渡ってチンギスハーンになったゆうのは論外として、上杉謙信は女だったとか、聖徳太子は実在してへんかったゆうのがある)。
坂本龍馬ブームで、京都の「幕末維新ミュージアム」は人気があるらしいな。
有名人の遺品がいっぱいあるそうや(坂本龍馬を切った刀がある。坂本を切ったのは今井信郎ではなく、桂早乃助にまちがいなさそうやけど、他にも何十と説があるのは、好きなもんが重箱の隅をつついているのやろ)。
夏目漱石は、文章がなかなか浮かんでこんと、鼻毛をぐいっと引きちぎるくせがあったようや。鼻毛つきの鼻くそが原稿用紙に田植えみたいに植えつけたもんが残っていると、孫の夏目房乃介が書いていた(日本人で最大とゆわれている脳みそは東大医学部にあるそうや)。
また、漱石の嫁はんは悪妻で有名やけど、単に寝坊癖があっただけで、そんなことはなかったようや。逆に漱石はDVで、自分の子供を庭に投げとばそうとするのを嫁はんが止めたと、孫が書いている。
有名人は何でもわかっているし、何でも残っている。教科書に載るどころか、教科書を開けることもしなかったもんはどうやろか。
身内でも、曾孫(ひまご)におぼえていてもらうもんは少ないやろ。死後30年ぐらいで忘却の闇に消えて、ただ分子・原子となって宇宙を漂うだけや。
それでええのやないの。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ、とゆうわけや。
ぼくは、「葬式無用 戒名不要」と遺言した白洲次郎を気取って、「介護無用 墓不要」とゆうている。倒れたら自分を始末することに決めている。
7年前に小脳梗塞をしたが、最近ようこけてな。母親が畑でこけて、硬膜下血腫からいろいろ出てきて死んだもんやから、ぼくもその口かと思うているんや。
何を隠そう、先月、梅田の阪急高架下の「たこ梅」で意識不明になって救急車で運ばれた。いっしょに飲んでいた長女夫婦が、「脳梗塞で倒れた」と思うたらしい。
確かに小脳梗塞をしたとき、医者からは、「ご主人、今度梗塞が起きたらあきらめてくださいよ」とエライ丁寧にゆわれたもんやけど、その日は次女の結婚式でだいぶ飲んでいたのや(若いころは意識不明、記憶喪失は日常茶飯事やったから、非日常茶飯事が起きただけやろ)。
雨の日もようすべってこける。以前は、こけても1日1回程度やったけど、1日2回こけるようになった(こっちのほうがショックや)。
みんな、こけてもええけど頭打ちなや(坂上二郎、谷啓、松尾和子は、それで死んだんやで)。
そして、死んだらしゃあない。ぼくに財産がないことは自他共に認めているから遠慮しながら、書きちらしたもんをコピーでもしてほしい、骨はインド洋に捨ててほしいとゆうている(ぼくが今書いている話の主人公がそこにいるので。イルカやけど)。
ところで、どの新聞にも、被災した人の話が載っているやろ。地震や津波がなかったら、顔も話も知らん人や。せやけど、その人たちの喜怒哀楽がようわかる。
喜怒哀楽がいっしょやゆうことは、同じことをするはずや(なつかしかったら抱きつくし、憎かったらどつく。ほんまにしたら捕まるけど)。
それで、「人の風景100戦」として、思いついたときに、人の行動を取りあげることにする。
谷内六郎や原田泰治のような絵ぇ描けんし、100才の柴田トヨや、どこがええのかわからん相田みつをのような詩も書けんので、ムーズ流でやることにする(せやから、絵ぇを頭で浮かべてや)。
「難波八百八橋」とゆうけど、ほんまはその倍はあったそうや。そんなことは稀有なことで、100とかゆうても、少ないのが通常で、無理に数合わせすると、ぱちもんが入ってくる。
「人の風景100選」は、ほんまはなんぼあるかわからん(思いついたらゆうので)。
「閉店がらがら」まで、どのくらいになるかなあ。こけて硬膜下血腫が起きんように、そんなんゆうていたかと記憶消失が起きんように祈りながら、「日本の山、水、音100選」などに追いつくようにがんばるだけ。

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