恥ずかしい人生
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「恥ずかしい人生」
パナマ文書とか都知事の公金利用など、せこい話が聞こえてくる今日この頃です。
不景気ゆうても、金を隠したくなるほど持っている人や、公金、つまり人の金を自由に使える立場の人はいるんやな。
前にもゆうたけど、大金を持っている人は、「このへんにしといたろ」と思う人はほとんどいなくて、100億円持っていたら、「次は130億円にしたろ」と思うようになると、昔事業に失敗した有名な人がゆうていた。
しかし、これはまちがいや。庶民も、昔流行った言葉でゆえば、「それなりに」増やしたいのや。ただ、桁がちがう。
バブルのときは、「脱税やなくて節税」とゆうことが合言葉やった。それが高じて、「宗教法人」を取ったりする不動産屋やパチンコ屋などがいた。
そんなえげつないことはできへんもんは、「分社化」した(ぼくも、二つ株式会社を持っていたけど、一つは、ごたごたのときにつぶさざるをえなかったが、もう一つはまだ持っている。欲深のなごりや)。
金を隠す人には対しては、人の何百倍も税金を払っているのやから、「なるほどな」と思うところもあるけど、今回の都知事はあかんな。人の金やからな(ただ、舛添だけではなく、石原慎太郎もえげつなかったようやから、誰でも、人の金は使いたくなるんやな。泣きの野々村議員はかわいいもんか)。
とにかく、日ごろゆうていることと、していることがばれると恥ずかしいもんやけど、それを恥ずかしいと思わない、いや、思うても表に出さないことが、俗物の大将になる条件かもしれん。
その点、ぼくも俗物やけど、恥ずかしいことを乗りこえられなかったので、事業に失敗したんや(そうしとこ)。
まあ、人生とは恥ずかしいことの積みかさねやろ。今は、金のことで恥ずかしいことはなくなったけど、他の恥ずかしいことは増えたような気がする。
もっと詳しくゆえば、人に見られると恥ずかしいことだけでなく、自分に恥ずかしいことも増えた(自意識過剰や。70近くになっても、まるで高校生やで)。
若いときは、ネックレスをつけたろと思うても、着けたり外したりするときのしぐさが恥ずかしくてでけんかった(両手を後ろに回すしぐさが)。指輪も照れる。
今も恥ずかしいことばかっかりや。今は部分入れ歯や。それも二つ。それを入れたり外したりするときは、この世の終わりかと思うぐらい恥ずかしい(大昔おばあちゃんが総入れ歯をどこかに置いていると不気味やったが)。
「それなら、インプラントでも入れたら」とゆうやろけど、その余裕がない(金がないと答えるのも恥ずかしい)。
これからも、「それなりに」恥ずかしいことは増える。
バギーを押して歩くのは恥ずかしいやろ。おしめを変えてもらうのも恥ずかしいやろ。ぼくを待っているのは、「恥ずかしさの宝石箱や~」。
それより、仕事するのが恥ずかしい。長生きしたいと思うのも恥ずかしいとなると、我ながら重症やと思う。
「ああ、恥ずかしかった」ゆうて死ぬのもなんやから、恥ずかしさの向こうに何かあると思うようにせんとあかんのやろか。
それなら、恥ずかしいことに慣れることや。いつも人にやさしくしたり、今の生活に満足していたろ。ああ恥ずかし。