シーラじいさん見聞録
「名前?」
「さっき自分をあらわすものとかなんとか言っていただろう」
「ああ、そうそう。ぼくときみはちがうだろう」
「そうだな。顔も形もちがう」
「きみは、きみの仲間ともちがうはずだ」
「そうだ。仲間は、おれをおっちょこちょいと笑うんだ」
「だれかが、きみのことを話題にするとき、名前があれば、おちょこちょいとか言わなくてもすむじゃないか」
「きみも、はじめてなのにひどいこと言うやつだなあ」
「ごめん、ごめん。君と話をしていると、うれしくなるんだ」
「そうすると、名前とは陰で悪口を言うときに使うものなのか?」
「そうじゃないよ。お互いが理解しあうためのものだ」
「ふーん。きみはむずかしいことを知っているね」
「いや、ぼくも、名前なんて知らなかったけど、シーラじいさんが教えてくれたんだ」
「ああ、いつもきみの横にいるおじいさんのことだね」
「そうだ」
「それじゃ、きみの名前はなんて言うの?」
「オリオン」
「オリオン?」
「そう、オリオン。きみは、外の海に行ったとき、海から顔を出すことがあるだろう?」
「もちろん」
「そうしたら、暗くなると、上できらきら光っているものがいっぱいあるだろう?」
「うん」
「あれは星というものだけど、それだけなら、区別がつかないので、一つ一つの星や、いくつもの星を一つにして、名前をつけているんだ。
そうすると、その星について話をすることができる。
その中で、強い兵士の意味があるのをオリオンと言うんだ。シーラじいさんが、その名前をおまえにつけてやると言ったんだ」
「星の名前は、全部シーラじいさんがつけたのか」
「そうじゃないらしい。昔からそういう名前がついているのだ」
「ぼくのパパは、ここへ来るとき、強い兵士になって帰ってこいと言っていた。
ぼくも、強い名前がほしいけど、シーラじいさんに頼んでくれないか」
「いいよ」
「もうそろそろ行かなくてはならない。きみに近づかないように言われているので、そっけないふりをするかもしれないけど、気を悪くしないでくれよ。また会いにくるから。
あっ、それから、おれが、ここにいられるように祈っておいてくれよ。それじゃ」
シャチの少年は、あっという間に姿を消した。
オリオンは、シーラじいさんに、少年のことを話した。
「そういえば、リハビリを受けているのはシャチが一番多いようだ。
それくらい危険を顧みず、みんなのために見回りをしているじゃろ。
世界で一番早く泳ぐと言われている。しかも、早いだけじゃなくて、どんなに大きなものにでも恐れず向かっていくということじゃ。
親同士、それぞれの子供の教育のために助けあったり、食料を分けあったりしているとどこかで読んだことがある。おまえも、その少年の話をよく聞くといい」
「その子は、シーラじいさんに、ぼくみたいに強そうな名前をつけてもらいたと言っていたんだ」
「そうか。考えてみよう」
オリオンは、その少年が子が来るのを心待ちにした。しかし、一人でリハビリをしているときも来ることはなかった。
ぼくと話をしたことが誰かに見つかったのではと考えた。
ただ、遠くでリハビリをしているのを見ることはあった。
ある夜、一人でいると、その少年がやってきた。
「ごめんよ。来れなくて」少年は、申しわけなさそうに言った。
「いいんだよ。元気そうなのはわかっていたから」オリオンは笑顔で答えた。
「リハビリがすむと、毎日説教やら勉強やらで遅くまで残されていたんだ」
「それで、どうなったんだ?」
「まだ結論が出ていないんだけど、教官は、おれの親に会って決めると言っていた。親の性格が、子供に伝わるものだからだって」
「ふーん」
「ところで、シーラじいさんは、おれの名前をつけてくれたんかい?」
「シーラじいさんにはちゃんと言っておいた。でも、最近忙しそうなんだ」
ボスから話があったからだろうが、仲裁人から、ぜひ話を聞かせてくれという依頼があったので、シーラじいさんは、毎日そこに出かけるようになったのだ。
仲裁人は、見回りをしている大勢の者の中から、優秀な者が選ばれることになっているようだ。当然老人が多かった。
しかし、見回りからすぐに仲裁人になれなくて、書記の仕事を長く続けなければならなかった。
書記は、仲裁人が下した仲裁案をおぼえるのが仕事であった。仲裁案を記憶するだけでなく、昔の仲裁案を口伝えでおぼえなければならなかった。
仲裁人になる夢を持っていても、この段階であきらめざるをえない者も多くいるということだった。
そのような組織の説明を受けたあと、仲裁人の前で話をすることになった。
シーラじいさんは、「よりよい仲裁をするために」というタイトルで話をすることに決めた。
クジラ、サメ、シャチ、イルカ、タコ、イカなど、その数は100を超えていた。
老人が多かったが、比較的若い者も、そのまわりに大勢集まった。仲裁人をめざす書記だろう。
見回りについている者からも、聞きたいという声が多かったが、会場の都合や任務の割りふりなどのために、今回は認められなかったようだ。
会場のざわめきはそう大きくはなかったが、みんな落ちつかないようだ。
そのためかあちこちからの波が複雑にぶつかって、お互い体をぶつけあっていた。
「これは失礼」
「いやいや、こちらこそ」
「最近、わたしらにはわからない争いが起きるようになりましましたな」
「世の中が世知辛くなったのは、何か理由があるのじゃろか」
「両者の言い分を聞いても、ほとほと困るときがあります。おや、誰か出てきましたよ」
大きなマグロが岩陰からあらわれた。マグロは、みんなが見つめる中を中央に進んだ。
司会者のようだ。
聴衆に正対して、あたりをゆっくり見わたしてから、おもむろに声を出した。
「皆様、ご静粛に」
その声は、岩壁に当たり、重々しく響いた。しばらく黙った。マグロは、自分の声を聞き、満足したようだった。
それから、大きな咳払いをして、もう一度聴衆を見わたした。
「本日は、ご多忙にもかかわらず、かくも多数のお集まりをいただき、心より感謝する次第です。
ご承知のとおり、われらの生は、誠に苦悩が尽きないものであります。
しかしながら、われらは、また苦悩のない生はありえないということを知っています。
なんとなれば、生は自らを否定する死を含有しているものだからであります
畢竟するに、我らは苦悩から逃げることなどできないのであります。
さて、本日、叡智をご披露願うのは、もうご存知の方も多いと思いますが、我らが祖先と申すべき存在のお方です。
この方の世代こそ、我らが、生を考える端緒を開いた世代であります。
しかも、それだけでなく、進取の気象に富むこと、まさに鬼神をも感ぜしむところであります」
マグロの司会者は、自分の言葉に酔ったかのように涙声になり、言葉が詰まった。
どこからか笑い声が起きた。
「いやいや、これも、わしらが耐えなければならない苦悩ですかな」
「ごもっとも」
マグロの司会者は、ようやく自分の感情を飲みこみ、話を再開した。