シーラじいさん見聞録
「あっ、ボスが帰ってきたようです。すぐに外に出てください!」秘書は叫んだ。
揺れはさらに大きくなり、なかなか前に進めなかったが、シーラじいさんは、出迎えなければ失礼になるのかと思い懸命に泳いだ。
オリオンは、もう泳ぐのはなんでもなかったので、なんなく前に進んだ。
そのとき、前方50メートルぐらいの海が、一気に盛り上がったかと思うと、黒々とした巨大な山が浮かびあがってきた。
それと同時に、揺れはさらに大きくなり、シーラじいさんは、波に飲まれて、前が見えなくなった。
ようやく体を海面に出したが、山に沿って、滝のような水が流れていた。
その後、何か押しだされるような大きな音がしたかと思うと、その山の頂上近くから、水が噴水のように噴きだした。それは、断続的に4,5回続いた。
わたしたちは、そこから50メートル近く離れていたけど、その巨大な姿に言葉を失って、揺れに体を取られないようにしながら、呆然と見ているだけだった。
「ボスが来た」という秘書の言葉を聞いていなかったら、海底火山が突然浮きあがったように思っただろう。
体長30メートルはありそうだ。顔に当たる部分は高層ビルのように四角だった。
「ああ、これは、マッコウクジラです!世界で一番大きな生き物です」
ようやく多田さんが、上ずった声を出した。
「その中でも、これは大きい」
「以前小笠原でザトウクジラを見たことがあるけど、こんな大きなクジラは初めてだわ」
「神々しいとしか言葉がないなあ」
みんな誰かに話しかけるのではなく、自分の感情を抑えきれなくなって言葉にしているようだった。
オリオンは、シーラじいさんのところまで戻って、「ボスは大きいですね」とささやいた。
「ほんとだ。どでかい顔をしている」と答えた。
目や口の場所から判断すると、体長の3分の一は顔のようだ。
滝はようやくおさまった。すると、その山は、秘書に声をかけた。
「きみ、ご苦労さん」
「ご苦労さんじゃありませんよ、ボス。また近すぎましたね。みんなけがや病気と闘っているのですから、もっと離れて浮きあがるように前からお願いしているじゃありませんか」
秘書は、ボスに注意をした。
「ごめん、ごめん」
ボスの声は腹に響くような低い声だったが、いたずらを見つけられた子供のようだった。
「お客様には、わざわざ外に出ていただきました。ボスからもあやまってください」
秘書は、まだ続けた。
「そう怒るなよ。早くお二人にお会いしたかっただけなんだから」
「今後気をつけてくださいよ」そう言うと、秘書はどこかへ行った。
「やれやれ、いつも怒られてばっかりだ」ボスは、独り言のように言ってから、シーラじいさんとオリオンのほうに顔を向けた。
「シーラじいさんとオリオン、よくおいでくださった。おけがのほうはどうじゃな」
「お陰様ですっかりよくなり、今リハビリをしています」
オリオンは、緊張して答えた。
「それはなによりじゃ」
「あなたがオリオンを助けてくださったそうで、誠にありがとうございました」
シーラじいさんも、巨大な山に向って叫んだ。
「いやいや、通りがかったとき、気の毒な子供を見て、何とかしなくては思ったんじゃが、子供にけがをさせてしまった。
あれからずっと反省の日々を過ごしてきた。どうかわしを許してくだされ」
「何をおっしゃる。あの時、あなたしか助けることはできなかった」
「そう言ってもらうと、少しは気が晴れる」
すると、胸のつかえが取れたように、うれしそうにうなずき、「いや、耄碌したものです」と恥かしそうに言った。
「いやいや、それはお互いですって」
シーラじいさんも、旧知の間柄のような気になって、そう慰めた。
「ところで、ここはどこなんで?」
「『海の中の海』といわれている。何でもわしらが生まれるずっと前に、ここらあたりでは、あけてもくれても争いが続いたときがあったそうじゃ。
あるとき、逃げてきた者が、ここに迷いこんでくると、気持ちが落ちついたそうじゃ。
そして、追いかけてきた者が、ここに入ると、争いがばからしくなったということじゃ。
でも、当時は、争うことが善なので、誰も、ここに来ることはなくなった。
それから、長い時が過ぎて、誰かが迷いこんだとき、今まで知らなかったような気持ちのいい風と波が体を包んでくれた。
それから、何か悲しいことや困ったことがあると、ここへ来るようになった。
友だちが悲しくなったり、困ったりしていると、ここへ来るように教えた。
それ以来、ここは、『海の中の海』といわれるようになった。太古の海は、こうだったのだろうか。今では、誰かの役に立ちたい者が出入りしている」
「そうだったのか」
「ところで、あなたたちは、名前を持っていなさる。それはどこで覚えたのか」
「わしらの国では、みんな持っているので、わしが、この子に名前をつけてやった」
「それは昔からか」
「昔からじゃ。わしらは、大昔からニンゲンの研究をしているので、その真似をしたようだが」
「ニンゲン?」
「オリオンをボートにくくりつけて、船で逃げようとしたやつらじゃ」
「わかった。わしらとも、昔から深いかかわりがある。あなたは、ニンゲンについて詳しいのか」
「そこそこ」
「それじゃ、ここの者に、ニンゲンについて教えてくださらんか」
「わかった」
「それじゃ、わしは行かなければならん。どうぞ、ゆっくりしていってください」
そういうと、ボスは、頭を沈めてから、海面に出ている巨大な尾びれを何回か大きく動かしたかと思うと、高くはねあげた。巨大な姿は消えた。
すると、また大きな波がシーラじいさんとオリオンを襲った。