シーラじいさん見聞録

   

「わたし、いっぺんにシーラじいさんのファンになったわ」と、お花の先生をしているといっていた山田さんが、甲高い声を出した。
「ずっとついていきたいわ。何か起きそうな気がするの」
「起きるとしても、ぼくらと時間の感覚がちがうから、何百年後かも知れない」と、山口さんが冷静に言った。
「むしろ、そういうことを学ぶべきかもしれないね」と、今までじっと様子を見ていた倉本さんが口を挟んだ。
「シーラじいさんが、人間についてどう思っているかは知りたいもんだ」と、一番年配のように見える藤木さんが言うと、みんなうなずいた。
わたしは、同行している人の名前は聞いているが、職業や年齢は聞いていない。父親と同じぐらいの年齢の人が多かったし、その人のことを知っても仕方がないと考えたからだ。
その人が、シーラじいさんや彼の言動を見て、どう思うかを知りたいだけなのだ。
そして、私自身は、ずっとシーラじいさんについていくが、他の人は、仕事や用事があれば帰ってもいいし、時間があれば、あるいはシーラじいさんへの興味が残っていればもどってくればいいのだ。
「ところで、シーラじいさんは、『わしらも電波を使っている』と言っていたが、どういうことなの?」と、山田さんがみんなに尋ねた。
多田さんというおとなしそうな人が、「食料、つまり、他の魚が出す微弱な電気信号を捕らえて、食料を得ているようですね」と説明した。
「こんな暗い世界ですもの、それはすばらしい方法だわ」と、山田さんは感心したように言った。
「ところで、シーラじいさんは、どこへ行ったのかしら」と、高島さんという、もう一人の女の人が聞いた。
「自宅に帰ると言っていたな」と、今まで黙っていた五十嵐さんが言った。
「それじゃあ、わたしたちも行きましょうよ?」
「待ちたまえ。ここは、悠太君が案内しているのだから、悠太君に従わなくてはいけない」と、几帳面そうな高橋さんが、みんなを制した。
「それでは、ぼつぼつ行きましょうか」
わたしは、せっかちなほうなので、これ幸いに泳ぎはじめた。
「でも、暗くてよく見えなかったけど、シーラじいさんの鰭(ひれ)がかたっぽなかったようね」と、後ろで、山田さんが言っているのが聞こえた。
「そうだった?」と、高島さんが応じた。
「シーラじいさんたちの鰭は、肉鰭類(にくきるい)といって、根元に骨のある肉厚の鰭を4対持っている。それが、脊椎動物の手や足になったといわれているんだ。
そういえば、体が傾いているような気がしたな」と多田さんが二人に説明していた。
「きっと勇敢な隊長だから、率先して戦ったときに、敵に食いちぎられたのよ」と、山田さんがうれしそうに言った。
ここは深海500メートルなので、青以外の光はほとんど吸収されて、すっかり夜の帳(とばり)が下りた道を進むようだった。
上を見上げれば、少しは光が届いているようだった。ときおり大小の黒い影が走った。魚がかなりいるようだった。
「あれ何?」という声が聞こえた。多分高島さんだろう。
振り向くと、みんな何かを見ていた。そこには、小さな白い光が浮かんでいた。
「あれは、チョウチンアンコウだろう」と早速多田さんが答えた。
「アンコウ類は、頭に、食料をおびき寄せる釣竿を持っている。それをイリシウムというんだ。チョウチンアンコウなどは、イリシウムの先に発光器がついている。これも生きるための工夫だな」
「あれもすごいぞ」と、初めての声がした。小川さんだ。
わっという声が上がった。遠くで、ふわふわしたものが浮かんでおり、それが動くたびに、赤や黄色などの光を放っているのだ。
口々に、「きれい」という言葉が飛びかった。
「深海は楽しそうね」
「でも、食料が少ないぞ」
「ここは少し見えるが、1000メートルぐらいになれば、全くの暗黒の世界だ」
ようやく、シーラじいさんらしき影に追いついた。
あいかわらず上体が下に向いているが、確かに左に傾いているようだった。
ぼくは、シーラじいさんの記録係と案内人であるから、シーラじいさんに話しかける特権を持っているが、今後は、なるべく距離を置こうと決めている。
話しかけることによって、シーラじいさんに予断を与えるかもしれないからである。
また、わたしについてきている人たちを励ますことより、静かに事の成行きを見ましょうと注意することも増えるような気がした。
とにかくシーラじいさんは疲れていた。幸いシーラじいさんの家は、密集した住宅地から離れていたので、声をかけてくるものに会わなかった。
その日は一日食事をしていなかったが、空腹を感じなかったので、寝ることにした。
手ごわいことが前にはだかったときは、とにかく寝ることというのが、先祖からの教えだったからだ。
ばけものも思えたものが、翌日見ればウミエラかイソギンチャクが風に揺れているだけだったように、何でもないことに多いからだ。とにかく、自分が変わらないことが一番なのだ。
しかし、なかなか眠ることができなかった。

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