シーラじいさん見聞録

   

シーラじいさんは、水圧が高いのが苦手なので、上に行くにつれてから、体が楽になっていくのがわかった。
それにつれて、気持ちも軽くなっていった。
マウじいさんを見つけることができなかったが、自分も、そう思ったように、もし何かの事情で、どこかの国にたどりつき、そこで生活をしていることもあるかもしれない。
里心がついたら帰ってくるだろう。誰でも、昔から知っている者に見取られながら死にたいものだから。
いなくなったことを、すぐさま悪いことに結びつける必要はない。
とにかく、わしらは、自分の意思で、こんなに深くまで来ることはない。息苦しくなってきて生きていけない。ましてや、わしやマウはポンコツの体なのだから。
とりあえず、探しながら帰るとしよう。ひょっとして、マウは、もう帰っていて、「どこをさがしていたんだ」などとへらず口をたたくかもしれない。
幸いトラフという舟状盆地は、崖と崖の間にできているのだから、両方の崖を見失しなわないように、上へ上へと上がっていけばいいのだ。
そして、どちらかの崖が切れたら、残っているほうの崖に沿って上がっていく。
そうすれば、そこには、大きな岩に囲まれた我がふるさとが見えてくるはずだ。
シーラじいさんは、ゆっくりだが、力強く上がっていった。
ときおり、魚の影がのんびりと動いている。食料を探しにきているのだろうか。
しかし、夜ともなれば、自分の仲間が待っている場所に帰るだろう。何千キロと移動する者でも、妻や子供がいる場所は決まっていると聞く。
家族や仲間がいれば、どんなことにも耐えられるのだ。根無し草のように放浪する者は、どんな思いで毎日を送っているのだろう。わしらは恵まれている。
それにしても、意識を失って落ちたり、倒れていたりしたのに、よく助かったものだ。
しかも、あれ以上落ちていくと、呼吸ができなくなって死んでしまうところだった。
これほどの幸運があるだろうか。
急いでいたが、途中疲れてくると、岩にある窪みを探して休んだ。中から小さな魚やカニなどがあわてて飛だしてくることがあった。
そのように、2,3日休みながら上がっていくと、一方の崖がなくなった。そっちは、また果てしない深海が広がっていることだろう。
シーラじいさんは、残っている崖に沿って上がっていった。
しかし、いくら上がっても、崖は続いているので、心細くなってきた。
しかも、あたりの様子がどうもちがうように思えてきた。どこか明るいのだ。わしらがいる場所は真っ暗で、それで安心できた。
しかし、ここは、暗闇の中に青い粒子が混じっているように、うすぼんやりした世界だった。しばらくいない間に世界が変わったのかとさえ思った。
多分、調子に乗りすぎて、上に行きすぎたのだろう。それでは、横へ回ってから下がれば、ふるさとにもどれるはずだと考えた。
それで、しばらく水平方向に進んで、また下に向った。
しかし、見つけることができなかった。崖は、どこまでも深海深く続いているように思えてきた。
あせればあせるほど体の節々が痛んでくる。ここまで帰ってきたのに、ここで自分を見失って、命を落とすことはない。よく考えることだ。
シーラじいさんは、自分に言いきかせて、窪みで、しばらく休むことにした。
そして、どうしたものか思いめぐらした。
しばらくすると、子供の頃、「わしらの国は、この近くで一番大きな島の下にある」ということを親から聞いたことを思いだした。
それでは、その島を見つけて、その下を行けばいいのだ。しかし、上に行くと危険が待っている。わしらの祖先は、危険を避けるために、何億年も前に、そこを去ったはずだ。
しかし、こんなことを繰りかえすより、さっさと「海の終わり」に行って、誰かに聞くなりして、大きな島から下に行ったほうが早く帰れるはずだと思った。
しかも、夜なら危険なことは少ないはずだ。
とにかく、徒に体力を使うことは避けなければならない。シーラじいさんは、じっと考えこんだ。そして、意を決して上に向った。
海は、最初上がってきたときのように、少し明るくなってきていた。
今までのように、がむしゃらに上がるのではなく、物陰があれば、そこで立ち止まって、様子をうかがいながら進んだ。
しばらく行くと、崖もなくなった。そこから海底が広がっているので、それに沿って、水平に進むことにした。
海底に沿っていく限り、隠れる場所はいくらでもあり、夜になったら、また上に上がればいいからだ。
どうやら海底は、登り坂になっているらしい。あたりは、さらに明るくなっていき、動いている魚の姿がはっきり見えてきた。
シーラじいさんに気がついた魚は、あわてて逃げていった。この明るさでは、自分もはっきり見られていることに気がついた。
さらに進み、岩陰を見つけて、そこから様子を見た。
海は、青く透きとおっていて、どこまでも見渡せるほどだった。そして、目まぐるしく動きまわる魚は、黄色や赤、青など、信じられないほどの色と形を持っていた。
これはどうしたことだろう。目立つことに危険はないのか。
さらに、その上では、エイやイカなどが気持ちよさそうに泳いでいた。
海底には、びっしりと黄緑色の林のようなものがあり、そこから色とりどりの魚が出入りしている。
ああ、あれがサンゴか。魚は、あれを住処にしているのだと聞いている。
すべては、初めて見る光景だった。目を開けていられないほどまぶしかった。
そのとき、上から、サメのような者が下りてくる。しかし、何百といる魚は逃げようとしない。
そのサメのような者は、サンゴ礁のところまで来て、魚を見ているだけだ。
わかった。あれは、小林たちと同じ人間だ。小林たちは、水圧が高いので重装備だが、ここにいる人間は身軽そうだ。
それにしても、「海の終わり」に、こんな風景が広がっているとは!
シーラじいさんは、呆然と、その光景に見とれていた。

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