シーラじいさん見聞録

   

上目使いに、まわりをじっと見つめた。
遠くで、赤や青、中には虹色の光がちらちら点滅している。イカやクラゲ、魚たちの発行器だろう。
発光器は、海面からわずかに届いた青い光の中で、下にいる敵から、自分の黒い影を見えにくくするためのものだ。
その光の強さも、上からの光を感じて、それに合わせるものもいるらしい。また、発光器は、食料をおびきよせたり、仲間との連絡にも使われているようだ。
発光器が近づいてくると、暗黒の中で、何からちらする気配がある。
あれは、マリンスノーだろう。動物や植物のプランクトンの死骸が、深海の中を雪のように降りそそいでいるのだ。
これが、深海にいる小魚、イソギンチャク、サンゴ、ナマコたちにとっては、大切な食料なのだ。
マウじいさんが向った方角を教えてくれたウミユリも、打ち上げ花火のような腕を広げて、マリンスノーを集めているのだ。シーラじいさんたちとウミユリたちとは、昔、新天地を求めて、ここへ移ってきた仲間なのだ。
ときおり、遠くのほうで大きな影が走る。クジラやサメだろう。
「あんなものにやられたら、ひとたまりもない。もっともクジラは、わしらに無茶なことはしないだろうが」と、シーラじいさんは、独り言を言った。
近くでは、ちょろちょろする小さな影があるだけだ。あれは、ユメカサゴのようだ。
金魚のように赤く、大きな目が愛くるしい。
わたしたちは、シーラじいさんが立ちどまっているのをいいことに、ユメカサゴに見とれていた。
国の中はもちろん、国境の外にも、マウじいさんのぐらいの影はなかった。
あれはと思ってみると、その影は、あまりにも早くて、シーラじいさんやマウじいさんの仲間ではなさそうだし、マウじいさんも体が弱っていて、のろのろとしか進むことができないはずだ。
「とにかく、わし国には、あんな大きなものが来ないようになっている。
岩に取りかこまれた城砦のようだからだ。
もし大きなものが入ってきたとしても、傍若無人に走りまわることができないだろう。無数の岩山が迷路を作っているからだ。
そして、岩山と岩山の谷間は、安全で、居心地のいい住処となっている。
だから、小さな魚や、動かないイソギンチャクやサンゴなどが、わしらの国に集まってくる。
もちろん、その代償として、わしらは食料をいただくこともあるが。
そうであれば、マウのやつに会わなかったのは、国境越えてしまって、そこで何か事故でも会ったのだろうか」
シーラじいさんは、しばらく考えごとをしていたが、「よし、これで、マウの奥さんにも、オーショネッシーたちにも、堂々と顔を見せることができる」と頭を切替えた。
「親友のことを人任せですませれば、悔いが残ったままだったからな」
シーラじいさんは、これで、やることはやったという気持ちになった。
また、来た道をのろのろともどりはじめた。
「待てよ。そうならば、マウは、なぜ国を出たのか。何か考えごとをしていて、こんなとこまで来て、道に迷ったのか。魔がさしたとは考えられないが。
このまま帰っても、胸の中の棘(とげ)は残ったままだろう。
わしも、そう長くない。このままでは、マウが生きていても、もうマウと会うことはできないかもしれない」
シーラじいさんは、またくるりと向きを変えた。
「そう思うのなら、そうすればいい」
しばらくして、先ほどのところまで来た。しかし、このまま進めば、オーショネッシーの部下に見つかるだろう。
そこで、街道を離れて、左にある細い道に入った。ここをしばらく行けば、また二股に分かれるが、さらに細い道を行けば、国境に出られる。
これは、軍隊を率いているとき聞いたことがあったのだ。もちろん通ったことはなかった。
確かに岩山と岩山の間にくねくねした道が続いていた。あたりには、どんな小さな影も見えない。
シーラじいさんは、何も考えず、そして休むことなく進んだ。
二股にさしかかっても、迷うことなく、細い道に入った。しばらくすると、両側には岩山はなくなり、前は漆黒の闇が広がっているだけである。国境に着いたのだ。
しばらく前や後ろを見回したが、一気に国境を越えた。漆黒の闇には、何の手がかりのなく、そのまま吸いこまれてしまいそうだった。
なるべく何も考えないようにしていたが、心臓が破裂しそうになっていた。
その場で止まっているのがやっとだった。
「もう帰ろうか」シーラじいさんは自問した。「なに子供のようなことを言っている。
シーラ・デヴォン・ンジャジジャ大佐ともあろう者が。
国民に対して恥ずかしくないのか。国民を守るのが職務だろう。今、重要な国民が消息不明になっているのだ。全権隊は、速やかに職務を全うすべし」
シーラじいさんは、暗闇の中を左右に動きながら進んだ。そうするうちに、昔の力がもどってきたように、大きな影が近づいてきても、恐くないような気持ちになっていった。いや、歯向かっていく心構えさえ感じた。
30分近く探した。ようやく止まって、何げなく後ろを振り返った。そこには、暗闇の中に、さらに黒い影の塊があった。
「ああ、わしの国だ」シーラじいさんにとっては、はじめてみる母国の姿だった。
「ああ、聞きしにまさる気高い姿じゃ。わしらは、母の慈愛と父の英知に守られてきたのだ」
「モウも、これを見たのだろうか。どんなことになっていても、それならいい」
シーラじいさんは、涙が、ぽろぽろこぼれてきた。
国境の外には絶対に出てはいけないという教えを破った後ろめたさと、懸命に親友を探した思いが、母国の姿の前で、シーラじいさんの心を激しく動揺させていたのだ。

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