シーラじいさん見聞録

   

「お前たちは、オーショネッシーという英雄は聞いたことはないがと思っているにちがいない」と、シーラじいさんは、わたしたちを見回した。暗くてはっきり見えなかったが、少しいたずらっぽい目をしているようだった。
そのとき、高島さんと小川さんが用事のために帰り、8人残っていたが、誰も返事もせずに、シーラじいさんを見つめた。
「あれは、英雄の名前ではない。第一次世界大戦のときに戦った、あるイギリス兵が、恋人に書いたラブレターが手に入り、わしらの中で評判になったことがあるらしい。
しかし、わしもよく知らないが、名前だけは人気があり、今も連綿としてつけられている。それでは、わしは行くことにする」
「シーラじいさん、お時間を取らせました」わたしは、あわてて礼を言った。
「オイデス山は、ここから遠いのですか?」誰かが聞いた。
「そうじゃな。この川に沿っていけば、半日で着けるじゃろ」
「川?」
「ここに川があるのですか?」
わたしたちは、顔を見合わせた。
「お前たちは、ミツァミウリ川の中にいるのだぞ」
「えっ」
わたしたちは、足元を見た。
「そこにいるイソギンチャクを見ろ」
まわりを見ると、赤や黄色の花のようなイソギンチャクが、あちこちの岩にはりついて、花びらのような触手を伸ばしていた。
「イソギンチャクは、たくさんの種類があるが、肉食種だ。流れの中で、じっと食料を待っていて、自分より大きな魚でも丸呑みするんだ」と多田さんが解説した。
「触手には毒があるんだろう?」と、五十嵐さんも話に加わった。
気がつくと、シーラじいさんは、もう暗闇の中に消えていた。
わたしたちは、川の流れを乱さないように、シーラじいさんの後を追った。
シーラじいさんの影はすぐに見えた。
後ろから見ると、左はぐっと下がったままだ。疲れがたまっているようだ。
今日は朝からまだ何も食べていないはずだから、お腹もすいているはずだ。
ときおり休んであたりをじっと見ている。食料となる小魚やイカは、シーラじいさんの横をすり抜けることが多かった。
しかし、少しはお腹に入れたようだ。
すぐに、のろのろながらも、マウじいさんを探しながら、川沿いを進みつづけた。
ここまで来ると、シーラじいさんの仲間に会うことはなくなった。それまでは、時々昔なじみに会うことがあった。
「おや、どうしたんだい。こんな遠くまで」
「引退してから、体がなまってしまってな。それで、運動をしているのさ」
「気をつけてくれよ。お前がいないと、わしらも困る」
「ありがとう。お前も元気で暮らせよ」
ごつごつした岩山の間に、ひときわ聳(そび)えたつ岩山が見えてきた。
あれが、オイデス山なのだろう。
シーラじいさんは、表側をゆっくり調べてから、裏に回った。ここは、シーラじいさんが言っていたように、上から落ちてきた資料を保管している場所だ。学者以外には、あまり来ないので、オーショネッシーたちは、ここを探さなかったようだ。
しかし、その資料がどこにあるのか、この暗闇の中ではわからなかった。オイデス山の麓(ふもと)の直径は、4,5キロはありそうなので、どこかに穴が開いていて、そこに入れられているのかもしれないし、どこかの岩陰にあるのかもしれない。
しかも、資料は、本やプラスチック製品だけでなく、船や飛行機から落ちた金属製品もあるという。
シーラじいさんの仲間は、体長2メートル近くあっても、それをどうやって運んだのであろう。
しかし、そのことについて、シーラじいさんに聞いたり、近くを探したりしないようにした。
この見聞録の目的は、シーラじいさんの言動を記録することであり、なにより、今はシーラじいさんを見守らなければならないときだからだ。
シーラじいさんは、どんな形であれ、マウじいさんがいないか、岩陰をていねいに見てまわった。
そして、表側にもどり、帰るべきか、進むべきか一瞬思案した。
「何を血迷っているのだ。マヨット谷まで行って、マウのやつを探さなければどうするんだ」
シーラじいさんは、自分の心の中に、友人を見捨てる考えが、一瞬でも浮かんだことが許せなかった。
それで、休むことなく、北の国境になるマヨット谷に向って進みだした。
マヨット谷までは、昨夜泊まったところからオイデス山ぐらいの距離があるだろう。
しかも、ミツァミウリ川は、オイデス山から東に向っており、いわば道がなくなっていた。
軍隊を預かっているときでも、マヨット谷までは、そう来たことがなかった。
「まあ、何とかなるだろう。初めてということもないし、『匂い』を忘れるほど耄碌(もうろく)はしていないはずだ」
しかし、上半身の左側は痺(しび)れてきていた。
「それもいいだろう。そうすりゃ、必ずマウに会えるってわけだ」
シーラじいさんは、少し気弱になっていた。意識が遠のくようなときもあった。
しかし、何回も休みながら、ようやくマヨット谷に着くことができた。
「そうだ。ここだ。もう少し行けば、兵隊が監視している。マウが通れば、兵隊は気がついたはずだから、国境の外には出ていないだろう」
マウじいさんは、手前で立ち止まった。
「これ以上行って、兵隊と話をするのも億劫だ。これで捜索終了としよう」
わたしたちは、もう少しマヨット谷のほうへ向った。
この「岩の国」の向こうは、真っ暗だった。700メートル上は、インド洋の海面になるが、下は、暗闇がどこまでも広がっているように思えた。
ここは、もちろん地球の深奥部であるけれど、地球から、夜の宇宙を見渡したようだった。この国は、広大無辺の暗闇の中に浮かんでいるのだ。
しかし、人間は、宇宙には、そう易々といけないが、シーラじいさんたちは、行こうと思えば、その宇宙に行けるのだ。しかも、そこには、無数の生きものがいることはわかっている。
しかし、シーラじいさんたちは、ここから出ないことが幸福なのだと教えられてきた。
確かに、ここを出ていく者はいる。だが、帰ってきた者はほとんどいない。
シーラじいさんは、マウじいさんの影を探した。

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