田中君をさがして(17)
2016/04/05
「じゃ」と立ち上がって、ゆっくり歩いた。みんなが、ぼくを見ているのを感じて、最初の階段を登った。
踊り場の上にある窓ガラスは、かなり汚れていたが、斜めに割れたところから、外の光が入り、床に、木の影を映していた。ときおり、その影の枝が、ぼくの足元で揺れた。
ぼくは、今、何も動かない世界に入りつつあるのだと思っていたので、何か不思議な気がした。
そして、耳を澄ますと、奥は、しーんと静まり返っているが、木の枝で遊んでいるのだろう、鳥が、チィ、チィとさえずるっているのが聞こえた。
とにかく、ぼくは、進まなければならない。
なるべく音を立てないように歩いた。スニーカーをはいていたし、かかとから、足をゆっくりおくようにしていたから、そんなに音はしなかったけど、靴の音が気になって仕方がなかった。
少し進めば、詰所があって、そこを右に曲がるのだ。壁には、病院の案内図や、病院の説明が書いて額が、斜めにずれていた。
よし、このまま、渡り廊下を通って、次の棟に入って、左に曲がるのだ。手術室を通り過ぎて、つきあたりまで、がまんすればいいのだ。しかし、時々、恐怖心が、ふわっと心に
わく。
ぼくは、あんまりじょうずに泳げないのだが、友だちと、潜ったことがあった。
海面から2,3メートルのところに、大きな岩が、何個かあった。友だちは、岩と岩の間のくぼみを見てみようと合図をして、そのまま進んでいった。ぼくは、その黒々としたくぼみが怖くなって、どうしてもついていけなかった。
あのときの恐怖心に似ていた。しかし、今は、進まなければならない。
ようやく、つきあたりの階段を下りるところまできた。そして、霊安室と書いてある看板を見ないようにして、そこを通り過ぎた。あとは、帰るだけだ。ぼくは、音を立てないように摺り足で、急いだ。そして、「薬局」のところへ出た。
そして、みんなが、見ているのを意識しながら、イスにすわった。
「今日は、たいへんな目にあわせたね。ほんとにありがとう。ところで、田代君は、どうだった?」と、パパは聞いた。
「ぼくの家族は、ママ以外は、みんなホラー映画が好きなんです。毎週のように、レンタルショップで借りています。
だから、何も出ないことがわかっているところを歩くのは、別に怖くないと考えていたのですが、どうも、奥に行くにつれて、ひやっとした風が、ぼくの体に入ってくるようでした。だから、ひざに力が入らなくなってなかなか前に進めませんでした。ようやく帰ってきましたが」と、田代は、話した。
「なるほど。藤沢君は?」
「おじさん、ぼくも、がんばったんですが、2階の手術室の窓に、誰かいるような気配を感じたんです。何気なく、そっちの方を見ると、おばあさんが、じっとぼくを見ていました。
絶対、そんなことはないと、自分に言い聞かせたんですが、やっぱり、ぼくを見ていました。もう一度、無表情の顔を見ると、体が、凍りついたようになりました。
なんとか、そこを通り過ぎようとしたのですが、どうしても、前に進めなくなりました。
それで・・・」と、藤沢は、口ごもった。
「いいよ。藤沢君。怖い目に合わせたね。吉野君は、どうだった?」
「ぼくは、おじいちゃん子でした。パパとママが仕事をしていたし、おばあちゃんが、ぼくが生まれる前に死んだので、保育園の送り迎えもおじいちゃんがしてくれました。
休みのときも、野球を見にいったり、魚釣りにいったり、いつも、おじいちゃんと一緒でした。
病気で入院していたんだけど、最後は、ぼくと一緒にいたいと言って、家に帰ってきました。そして、一週間後に死にました。奥の部屋に寝かされていたんだけど、ママが、何か取ってきてと、ぼくに言ったので、ぼくは、ちょっと怖かったんだけど、一人で、その部屋に行きました。
おじいちゃんの顔には、白いきれがかかっていました。
それを見ると、涙が、ぼろぼろ出てきました。そのとき、おじいちゃんの声が聞こえたんです。正夫、おじいちゃんの顔を見ておいてくれ。ぼくは、とても怖かったけれど、おじいちゃんが、大好きだったので、横にすわって、きれを、おそるおそる取りました。
そして、おじいちゃんの顔をさわりました。とても冷たかったけど、やさしい顔をしていました。
おじちゃんは、とても茶目っけがあったので、ときどき、死んだふりをして、みんなを驚かして、喜んでいましたから。
そのときも、目を開けて、びっくりしたか?と得意そうに言い出しそうでした。
今日は、そのときに似ていました。
心の中で、怖いという気持ちと、前に行こうという気持ちが、ぼくが、どちらを選ぼうか待っているような」と、吉野は言ったが、目が真っ赤だった。
「吉野君は、おじいさんが、ほんとに好きだったのだね。おじいさんのことを、いつまでも忘れないようにね。じゃ、小林君は?」と、パパは、ぼくに聞いた。
「はい」と立ったが、みんな、ものすごく真剣に答えたので、今、感じたことを、ちゃんと話そうとした。
「渡り廊下を過ぎたぐらいから、体が、しびれてきたようになってきたので、怖くないことを、自分に教えるために、口笛を吹こうと思ったんです。
しかし、迷信やことわざが好きで、図書館から、よく本を借りました。