エーモン、ワルモン(1)

   

今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~

「エーモン、ワルモン」(1)
中学生のとき、「うそをつくな」とか「人の悪口をゆうな」とかゆわれたもんや。
そのころ、文部省が勝手に決めた「『期待される人間像』(これについっては、また書きたいわ)とは何か」と、「あほの一つおぼえ」みたいにゆう校長がいたけど、その10年後ぐらいに、教育実習で、出身中学へ行ったら、知っている教師も、知らん教師は、職員室で、けんかする、けんかする。えげつなかった。足の引っ張り合い、悪口のいいやいと、まるで、ジャングルのようやった。
毛沢東が、田中角栄に、「仲良くなるためには、けんかをしなければなりません」とゆうようなもんではなかった。校長派、教頭派に分かれた派閥争いやな。実習生にもわかるぐらい、いや、実習生にもいろいろゆうてくる教師もいたから、実態は、もっとすごかったんやろな。それで、教師とゆう職業は、ぼくの選択肢から消えたな(なお、これは、3、23年前に、兵庫県のある中学校にあったノンフィクションで、現在、当該中学校あるいは他の中学校で、こういうことが実在するのかどうかは定かではありません)。
とにかく、人にとって、敵が、こんな身近にいるもんか知らんかった。それまで、「敵とは、国家で、人民をそこから解放するのや」と、インテリぶっていたけど、職員室を見ると、大人の社会は、なかなかしんどいことやなとわかった。
当時、日本のフランソワーズ・サガン(フランソワーズ・モレシャンとちがうで)とゆわれた倉橋由美子が、エッセーで、「男というものは、目の前にいる、この女の裸はどうなっているのかと考えるものだ」と書いていた。
ぼくは、「この一言は、敵の本質をついている、さすが学生で、芥川賞の候補になっただけことがある」と感心した。敵であるぼくは、そうやったからな(今はちがうで)。
せやから、敵を、的確に見つけることが、インテリやと思うようになった。
人は、まわりの人間を、敵か見方かに分けながら生きている。そして、敵を見つけて、やっつけたもんが成功するんやと、若造らしいことを考えたな。
政治家は、昔から、敵は、あいつや、あの国やとゆうてきた。「鬼畜米英を殲滅(せんめつ)しろ」みたいに(今は、アメリカの「ぽち」になってしもうたが)。
「悪い政治家は、敵を見つけ、いい政治家は、見方をみつける」。われながら、なかなかええことゆう。せやけど、どこかで聞いたことがあるような気もするけど。
人を、敵か見方かに分けるのは、貧しい人生やと考える人もいるやろから、それについては、次回書くとして、その前提条件として、人を分けるのは、みんな好きやなあ。「分けていらんわ」ゆうても、誰かが、勝手に分けよる。
古くは、ノーマン・メイラーの「ヒップとスクウェア」(ヒッピーとゆう言葉になった)、「かっこええとダサい」(『ちょい悪』も、ここから生まれたか)、今は、「勝ち組と負け組」か。
そして、どちらにも入らんのが、「よい子、悪い子、普通の子」の「普通の子」や。

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