おっさん考(ついでに、おばはんも)
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「おっさん考(ついでに、おばはんも)」(2)
ぼくら(おっさん)は、年いくのはいややなあと思うけど、若くなって、もう一度、人生をやりなおせるとゆわれても、二の足を踏むのがほとんどや。
自分の人生は、まだ終ってへんけど、うまいこといったことも、失敗をしたことも、とにかく、自分なりに一生懸命やってきたゆう思いがある。それは、仕事だけでなく、結婚や家庭のことも含めてや。
しぶしぶ社会に出てきてからは、何にもしらんかったし、どうしたらええかわからなかった。学生アルバイトしているとき、いわゆる上司に「そうやね」ゆうて、こっぴどく叱られた。そのときは、何で起こられたわからへんかったけど、事業をして、今度、ぼくが、言葉使いで、よう怒った。
せやから、神様に願いを聞いてもらえるなら、若い体で、今の経験を持たせてくださいと都合のええことを頼むやろな。
それが、無理なら、おっさんとして、どう生きるかを考えたほうがええ。
まず、今の自分の状況を考えよか。
ぼくらは、いつも、腹を減らせていたけど、日本どころか世界が認める食生活で育った。親のように、ヒンソやなかったし、今の子供のように、カロリーと戦わんでもよかった。
もっとも、子供のとき、「食べ放題」の店があったら、死ぬほど食べていたやろな。実際、中学のころ、家で、カレーライスを、5杯食べて動けんようになったことがある。
それから、テレビやテープレコーダーなど、文明の利器(大げさか)が、生まれたときからなく、多感なときに出会ったから、感激とゆうことが、心に残っている。
そして、高度成長を経験した。毎年、「高度成長」とゆう言葉が、飛び交っていた。がんばればやれるとゆうことを、子供心にも実感した。
今は、何でもあり、生活も困ってへんけど、充実感、達成感がないような気がする。
せやから、妙な宗教がでてくるのや(それについては、また書く)。
人間誰でも、60才ぐらいで、博士ぐらいにはなれる知識を持つようになるとゆわれている。手に職がないもんでも、「人生学」博士や。それは、社会や人だけでなく、自分自身を「経験」して、人生を分析する能力を身につけたからや。
ガッツ石松のように、「ぼくのラッキーセブンは、3や」ゆうような訳のわからんことをゆうのも、自分の「学問」から考えだした生き方や。
とにかく、80、90になっても、創造力や想像力は衰えることはないらしい。
妄想(夢とゆう言葉がはずかしいのなら)は、若者だけのもんやない。おっさんは、経験に基づいた妄想を持つことができる。
ぼくらは、堺屋太一に「団塊の世代」と名づけられたけど、史上最高に恵まれた世代なんや。弱気にならんかったら、どんどんよくなる「段階の世代」や。
歯は、なんとかブリッジにしてもらうことができて、ほっとした。