シーラじいさん見聞録
「それなら、一つだけ頼みたいことがある」
「何でも言ってください。命の恩人のためなら何でもします」
「そうか。わしの仲間に、背びれをなくしたものがいる。
昔、ニンゲンが、泳げなくなった者に人工のえらを作ってやったということを聞いたことがあるので、おまえさんに、それを頼みたい」
「えっ、やはりあなたは魚なんですか?」
「そうだ。しかし、困っているのは魚ではない」
「どういうことです?」
「わしの仲間だ」
「仲間?」
「ニンゲンが、イルカと呼んでいる生物だ」
「わかりました。どんな人でも、いや、どんな生物の方でもお役に立ちます」
「しかし、わしは、まだあいつの了解を取っていない。今から帰って話をする」
シーラじいさんは、そういうと、そこを離れた。若いニンゲンは、今自分がしゃべった者を見ようと、ボートから身を乗りだした。
海の上は、星明りで明るかったが、シーラじいさんは、すでに潜っていたので、何も見えなかった。
今まで、自分に食べものを運んでくれた者の影をちらっと見ただけので、自分は、もう正気でないのかという気がした。
シーラじいさんは、オリオンに、ニンゲンとの話をした。
「そりゃすごい。夢のような話だ」
「うまくいえば、また前のように泳ぐことができる。でも、ボートは重いから、おまえの体がもつかどうか心配なのだ。わしも助けてやるつもりだが」
「いや、ぼく一人引っぱります。でも、どうするのですか?」
「あのボートには、ロープがついている。それを口にくわえて泳ぐのが一番いいじゃろ」
「それくらい何でもないですよ」
次の晩、シーラじいさんとオリオンは、ボートに向った。
「あのニンゲンは、ヨーロッパ系の顔をしているようだ」
「ニンゲンはいろいろあるのですか」
「そうだ。同じ海にいても、わしらのように姿形がちがう者がいっぱいいる。それと同じことだ」
「そうか」
「ニンゲンとわしらとはもっとちがう。でも、心は通じあうだろう。おまえの気持ちは、相手に伝わるはずだ」
ようやくボートが見えてきた。
シーラじいさんは、オリオンを待たせて、今まで以上に近づいた。
そして、「約束どおり来ましたぞ」と声をかけた。
「ああ、来てくれましたか」若いニンゲンは、シーラじいさんの声がするほうに叫んだ。
ボートから、1メートルぐらい離れたところに、何か大きな黒い固まりがあるのに気がついた。
あれは何だろうと見ると、固まりの両端が光っていた。じっと見ていると金縛りになるような気がした。
目をそらすと、その下が大きく開いて、「昨日言った子供を連れてきた。その子が、このボートを引っぱっていく」という声が聞こえた。やはり、この固まりとしゃべっていたのだなと思うやいなや、「オリオン!」という声が上がった。
すると、遠くの方から、さらに大きな影がさっとやってきた。
その影は、「オリオンと申します」と言った。子供のようだ。星明りに、やさしそうな笑顔が見えた。
「えっ、名前があるのですか」若いニンゲンは、海の生物が言葉をしゃべるだけでなく、名前があるのが信じられなかった。
「わしがつけた。そして、この子は、わしをシーラじいさんと呼んでいる」
「わかりました。おれは、ジェームス・べーカー。ジムと呼んでください」
ニンゲンは、初対面の人間に対するように、かしこまって挨拶した。
そして、おれはどうにかなってしまったのにちがいない。こんなことがあるはずがない、それとも、海で死んだ者に嵌められているのか。
「それじゃ、ジム、どっちの方向に向ったらいいのだ?」
「えっ、こっちに向っている灯りは見えないでしょうか?」しかし、ジムは、問われたことに答えた。
すると、大きな黒い影は、突然飛びあがり、空中でくるっと回転したかと思うと、そのまま海に落ちた。それを何回か続けた。
「シーラじいさん、こちらに来る灯りはありません」オリオンは、少し息を弾ませて報告した。
「困ったな。それじゃ、星で方向を決めよう」とシーラじいさんは答えた。
「星?」オリオンとジムは同時に来た。
空を見上げると、幾万の星が輝いていた。それぞれがぎらぎらと光っているので、生きているようだった。
「そうじゃ。こんなにたくさんの星があるが、星によって光る場所が決まっている。
あれが見えるかのう。大きな三つの星が並んでいるじゃろ。あれが、オリオンの由来になったオリオン座だ。そのずっと下にある、さらに大きな星がシリウス。
そして、ずっと下にうお座があるが、小さいので見えにくいが。
そこにまっすぐ線を引いて、前に進もう。そっちが北だ。北の方向に、ニンゲンが住んでいる陸地がある。そっちの方向から灯りがくるはずじゃ」
「そんなことを知っているのですか」ジムは、驚いて大きな声を上げた。
「これは昔から、ニンゲンが航海するときにやっている方法だ」
そのとき、水平線に向って流れ星が走った。
「流れ星が消える前に願いごとをすれば叶うらしい」
「それは、おれも知っています」ジムは、歌うように言った。