中庸
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「中庸」
「あんた、自民党に入れなはるか?」と今年91の叔母が聞いてきた。日頃「長生きしすぎた。早う死にたいわ」とゆうのが口癖やけど、選挙のときは血が騒ぐようや(おじいにはそんなんが多いが、おばあにはめずらしい。若いときから株をしてきたのと関係あるのやろか)。
一人暮らしなので、週一ぐらいで食べもんを持っていっているが、今度会うと、「安藤の娘の父親は、誰やと思いなさる?」と聞くかもしれん(誰の子供でもええけど、自分で「愛娘(まなむすめ)」とゆうのはええんかいな。息子の場合、昔なら、「愚息」とか「豚児」とかへりくだったもんやけど、最近は、そんな言葉誰も使わんやろな。「子供に、~してあげる」時代やからな)。
自民党が、「ねじれ」を解消して、天下を取るかどうかはもうすぐわかるが(ぼくは、いっぺん共産党に政権を任せたいと思うている)、安藤の子供の父は誰かは、本人がゆわんかぎりわからんから、本人がそっとしていてほしいとゆうてもも、いや、それでかえって、火に油を注ぐようになっている。
「親がしぶしぶでも結婚を認めたのに隠す必要があるのか」とか「でも、子供の後頭部はどう見たって西洋人じゃない」とか「それなら、第三の男か」てなもんや。
ちょっと前には、生活保護不正受給や「ぺニオク」のタレントは残るのかがあったし、最近も、父親の国際手配でローラのCMは減るのかがある。
辛坊治郎もその餌食(えじき)やな。人気があるのに、批判も多い人物やけど(今回の失敗でギャラ総額5億円損をしたとか、これで池上彰を抜く計画がおじゃんになったとかすごいもんや)、ニュースキャスターで復活できるのかが取りざたされている。
テレビを見たり、飲み屋で話すのは、結局、誰かの運命はどうなるかが知りたいだけなんや(テレビの視聴率を上げたり、その場を盛りあげたいと思うえば、そういうエッセンスをこそっと入れたらええんや(「あいつも気の毒やな」とかさりげなく出すと、みんな乗ってくるはずや)。
それはええのやけど、今度は自分のことはどうや。つまり、他人が喜ぶ「どうなるんやろか」の対象になったことあるか。
別に他人を喜ばすために、何かをするわけやないけど、人とゆうもんは、ある芸能人が離婚するかどうかまで駆けの対象にする欧米のブックメーカーのようなもんや。
せやけど、世間体を気にしたり、「捕らぬ狸の皮算用」をしていたら、「やっぱりな」とゆう結果になるで。
決断は一瞬のことやけど、準備には人生分の時間がかかることを忘れないようにしようやないか。
中庸(ちゅうよう)の考え方が一番ええ。「ほどほど」や。孔子もアリストテレスもそうゆうている。真ん中いれば、両方がよう見えるし、どちらにもすぐ行けるわけや。
こうゆう考え方、生き方をしておれば、一か八かのとき、失敗が少ない決断ができるのや。
まわりに、偏った考えの人間や思い込みの激しい人間がいてへんか。あれは迷惑やし、本人もしんどいやろと思う。
ただ、表向きはそうでも、案外中庸の持ち主かもしれんから、人はわからんちゅうことや。
人のことはどうでもええ!中庸を忘れず、何事が起きても、冷静に対処することや。
安藤のような若い娘に、「できたけど、どうする?」とゆわれることはないとしても。