ちっちゃいこと
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ちっちゃいこと」
前々回、「一字ちがいで大ちがい」のとき、人生はちっちゃいことで大きく変わるんちがうかとゆうことやった。
それについて、もう少しゆいたかったけど、市橋が出てきたので、世間がとゆうより、自分の興味が薄れんうちに市橋についてムーズしてしもうた(せやけど、警察の話では、すねてしもうて食事をせえへんらしいから、マスコミは、「絶食何日目」とゆうテーマで、まだ「絶賛放映中」や)。
とにかく、ここでめでたく前回と前々回のムーズがドッキングした。
市橋も、左頬かに並んでいた二つのちっちゃいホクロを取っていた。
手配書にはホクロが特長やとなっていたとはゆえ、逃亡者も、ちっちゃいことを気にするんやな(そうゆえば、「逃亡者」のリチャード・キンブルは髪の色を変えていたもんなあ。ぼくは、「逃亡者」のナレーションをパロって、「目の色を変え・・・」ゆうて、みんなを笑らかしていたけど、今はカラーコンタクトで、ほんまに目の色を変えることができる。日本では余計に目立つやろけど)。
「ちっちゃいこと」は何回かムーズした。
信号待ちをしているとき、横道から車が来たらどうする。フツー入れてやるやろ。せやけど、自分の方向に行こうとしているのがわかると、「自分が先や」とばかりに、アクセルから、100分の一秒ぐらい足を浮かせて、車を詰めるやつがいる。
あんなことしなや。自分が卑しくなる。先にいかせたら喜んでくれるやないかとゆうことやった(ぼくの今のレベルは、入れることは入れるけど、指示器を出さんやつや、窓からえらそうに手を出すやつは、ちょっとむかつく)。
ちっちゃいことで修行ができるわけやけど、逆にゆうたら、ちっちゃいことで、その人間がわかるわけや(性格や修行程度が)。
自販機で何か買うたり、コンビニでコピーしたりするとき、お釣りがあっているのに、もう一度受取り口をゴソゴソしてしまう。また、お釣りがないのに手が行ってしまうことがある。
足はアクセルで試され、手は受取り口で試されるのやな(自分でもいややなあと思うことはせんようにせんとな)。
手とゆえば、スーパーなどでお釣りを渡されるときに、ちょっと手の甲を触られることあるやろ。
あれは、客が落さんようにとゆうより、何か意図があるように思うてしゃあない。
バブルのとき、ファミレスから若いウエートレスがいなくなったときがある(時間給が高いほうへ、高いほうへ流れていったのや)。
どの店も、ミニスカートをはいた40、50のおばちゃんが、「いらしゃいませ」とゆうていたもんや。
その姿を見んようにしていたけど、かがんだりしてテーブルの片付けをしているのが気になってしゃあなかった(どちらも、店側が、本人たちに、その意図を言わずにそうせえと教えているのとちがうか)。
とにかく、人間修行のレベルとして、第一は、ちっちゃいことをするな。第二は、ちっちゃいことを大きく考えるな。そして、第三は、大きなことをちっちゃく考えろとゆうことや(大きな困難が目の前にあっても、圧倒されたら乗りこえられへんやろ)。
そのへんはまたムーズしたいけど、今、気になっているのは、いつも行っている散髪屋の割引券3枚(1500円が200円引きになる)をどこに置いたかとゆうことや。