一字ちがいで大ちがい

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「一字ちがいで大ちがい」
父親は気が短かったので、あんまり近づかんようにしていたけど、何かの拍子に「一字ちがいで大ちがい。刷毛(はけ)に毛ぃあり、禿(はげ)に毛ぃなし」とゆうたことがあった。
ぼくは大笑いをした。父親も満足そうたった。父親は、ぼくが物心ついたときから、禿げていたので、自分のことをおもしろがっているんや。それにしても上出来やないかと子供心に思うたけど、何十年後に、大昔からあった言葉遊びの一つやとわかった(チビで禿やったから、かなり劣等感をもっていたようやけど、吹っきれて、そんなことゆうたんやろか。ぼくは、背ぃが高くて恥ずかしかったとゆうていた母親に似たからよかったけど)。
駄洒落や地口などの言葉遊びは、しょうもなと思うもんと、腹から笑えるもんの二手に分かれるけど、ぼくは、誰かがおもろいことをゆうと、もっとおもろいことをゆうたろと思う子供やった。
子供のときは、ラジオで漫才を聞くのが楽しみやった。
「宮本武蔵か」、「いや、宮本むさくるしいや」、「そしたら、おまえは佐々木小次郎か?」、「佐々木こじき」とか聞いてゲラゲラ笑うていた(「宮本むなし」とゆう定食屋がほんまにあるなあ)。
ところで、言葉遊びは、わざわざ「一字ちがい」を探してくるけど、世間は、そんなことをせんでも、「一字ちがい」や「ちょっとした」ことでできているように思わへんか。
札束を「保管しといて」を、「ほかしといて」と聞きまちがわれたらたいへんや(そうゆうてみたいけど)。
「これどうや?」、「ちょっと『違和感』がある」、「よかった」、「『違和感』があるゆうているやろ!」、「気にいっているのとちがうん?『いいわ感』があるゆうたやろ」、「あほか!」(今考えたけど理屈が勝ちすぎたか)。
日本人が、「ちょっとした」ことにこだわるのは、助詞のせいかもわからん。
「ぼくは、ぼくが、ぼくも」ゆうやつや。一字でも大きなちがいがあるもんなあ。
松井がアメリカでMVPをとって同慶の到りやけど、7,8年おっても、インタビューに通訳を入れるのは、そんなことが原因やろか。
イチローも松坂も、嫁はんは英語はペラペラと聞いているけど、「一字ちがい」をしたらえらいこっちゃと思うているのやろか。例のRとLがあるしな(その点、イチローといっしょにマリナーズにいた長谷川は、アメリカで野球解説をしているそうやからたいしたもんや)。
スポーツ選手でも芸能人でも、才能のことはおいといても、「ちょっとしたこと」で運命が変わるんやろな。やっていることはほとんどいっしょやのにな。
フツーのもんでも、朝起きて晩寝るまで、仕事以外は同じことや。それでも、一日や一生の気持ちはちがう。「ちょっとした」ことなんやろ。
これまで、自分の人生はもう一つやったと思うもんも、「ちょっとしたこと」で変わるかもしれへんで(結婚でも何でも、「ちょっとしたこと」の積みかさねや)。
もうすぐ「宝くじ」やけど、今まで、「一字ちがい」やったもんも、一字が合って、えらいことになるかもわからへん(ぼくなら、明日からマレーシアでの年金生活をはじめる。萩原流行に会えるかもわからんしな)。
そうなっても、「あいつは、宝くじに当たって、考えが大ちがいになった」とゆわれんようにしような。

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