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今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
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大雨が終ったら、また暑うなるやろ。そうなりゃ、ノウテンファイラ~になって、「なついあつですなあ」とゆう毎日が続く。
氷の塊をもらう動物園の白熊がうらやましくなる(中の鮭はいらんけど)。
突然やけど、暑いときに見るとよけいに暑くなるのが、言葉に中にある・や(チョンと呼んでもナカグロと呼んでもええけど)。
今新聞を見たけど、「リーマン・ショック」とか「村瀬哲司・龍谷大教授」とかある(8月2日の朝日新聞)、あれや。
どうしても・をつけんとあかんの(ベッピンさんに、「あ・げ・る」とゆわれるのやったらええけどな。もうノウテンファイラ~かてか)。
外人の名前と苗字の間にも・をつけるけど、あれは、どこまで名前かわからせるためか。
「デー・ブスペクターともデーブス・ぺクターともちがうで。もう日本人みたいなデーブ・スペクターやからどうでもええけど、エライ外人さんやったら恥かくから、デーブ・スペクターで練習しとき」とゆうことなんやろな(それなら、日本人のときもそうしいや。船場・太郎か船・場太郎かわからへん。うそうそ)。
そのデーブ・スペクターが、「日本人と話をすると、話と話の間で、すっーと息を吸いこむけど、最初あれは言葉やと思うていた」とゆうていたけど、あんなことゆうから煙たがられるのやろな(「住めば都はるみ」ゆうのはおもろいけど)。
まあ、・は、漢語の読み下し文や句読点などの日本のお家芸の一つなんやろ(「モーニング娘。」は画期的やった)。
明治の新聞のように、漢字の横に読み方が印刷してあるのも、学校へ行かれへんもんでも読めるようにしたんやな。
せやけど、教えたろとゆう親切心の押し売りか、「ちゃんと知ってます」ゆう見栄っ張りかしらんけど、・がどんどん増えていっているような気がする。
最近格差社会とゆわれているけど、ほとんどのもんが高校へは行っているんやから、・はもうええのんとちがうの。
せやけど、散髪屋には、まだ「bar ber」と離して書いてあるから、・は、まだいるのやろか(散髪屋や看板屋ゆうもんはよっぽど英語が嫌いなんやな)。
・みたいな小さなことをこだわっているから、自分のことしか興味がない世の中になったんちがうか。
テレビの番組も、自分がどうのこうのばっかりや。古手の俳優も、仕事がないのか、そこに混じっている。それに輪をかけたのがブログゆうや(ぼくには、露出狂としか見えんが)。
昔は、自分のことを社会でゆうのははしたないとゆうことやった。この2,30年でえらい変わったもんや。
今が悪いとはゆわへんけど、大きいもんも頭に入れておかんと、ええ社会がでけへんような気がする。
小さなことから大きなことを考えるとはなかなかのもんやろ?
それより、気が小さいのをなんとかせいてか。そりゃ、すんまへん。