ユキ物語(3)

   

「ユキ物語」(3)
おれは何もなかったように店内をうろつき、若いものを見てまわった。
先ほど言ったように、店に連れてこられたものもいついなくなるかわからない。
しかし、本人にとっては早くここを去った方が幸福な生涯を送ることができる。
だから、おれは、あいつらがいくら騒いでも叱ることもしないし、説教じみたことも言わない。するとしたら、いつまでもここにいる連中だ。そいつらは、人間にとって何か気に食わないことがあるのだろう。見てくれとか素性とか様子とか。
しかし、それは本人にとって理不尽なことだから、一言二言それとなく言葉をかけることはある。
それでも人間に好かれないと、今度は店側のほうからどこかに連れていかれる。
どこへか。それはわからない。しかし、数えきれないほどの、つまりそいつらの数だけの人生が待っているはずだ。
トルストイという人間は小説を書くことを生業(なりわい)としていたが、「アンナ・カレーニナ」という小説の中で、「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族 にはそれぞれの不幸の形がある」と書いているように、ここで不本意であっても、自分の生きる形があるということだ。
この言葉は、昔ここにいた読書好きの店員が、母子家庭のためにいかに苦労しているかを仲間に話していたときに引用したのを聞いたのだ。
それならおまえはどうなんだという向きもあるだろう。いずれは話さなければならないと思ってはいたが、自分のことは論評しにくいものである。
特におれの場合、人間ならば40を越しているのに、どうしてこんな店に、さらに特別な立場でいるのかは自分の口からは言いづらい。まあ、営業で使えると例の経営者か誰かが判断したのだろう。
おれは店員に呼びかけられてバックヤードに戻ることになった。これで今日の仕事は終わった。
若い連中は大騒ぎで走ってくる。おれの足元にぶつかりそうになりながらおれを追い抜く。そして、我先に晩飯にとりかかるのだ。
おれとしては、若い連中がどんどん食って自らの商品価値を高めるようにと親のような思いで見るのみだ。
ときどき元気のないのがいることがある。そんなときは、さりげなく近づいて様子を見る。
数日かけてでも自分で自分のもやもやを解決すればそれでいい。そいつはそれで成長したからである。
もし何日も自分の心をもてあますようであれば、さりげなく声をかけることにしている。
おれたちの時間は、人間の7,8倍速く過ぎているので、落ちた穴から自分で這いあがれない場合は、大人が助けなければならない。特に生後1年までの場合は、心の傷は致命的になることがあるからだ。
さて、今日は営業成績がよかったので、店は笑いで満ちている。
おれもすることはして、それがすべてうまく行った。ところが一つ気になることがあった。
あいつだ。ガラス一つ挟んで天国と地獄と言えば言いすぎかもしれないが、あの地獄の目はどうだ。
おれの、そして、おれたちの仲間の前には道が続いている。食いものを探して道なき道を行くものとはちがう。そう思うと少し楽になったので、すぐに眠ることができた。
翌日は朝から雨だった。しかし、近くのスーパーマーケットの特売日だったので、人は思うほど少なくない。店員も昨日の勢いが残っているからかみんなてきぱきと開店の準備をしている。おれも自分の姿が外から見えるように出入口のほうに向かった。
ようやく今日も終りに近づいたが、そこそこの成績だったようで、店内の雰囲気は悪くない。雨は続いていたが、美佳は西側のカーテンを下ろしはじめた。
おれは無意識に店の前の道に目をやった。いる!あいつだ。連日来ることはなかったのに昨日に続いて今日もいる。雨に濡れながらも、身動きせずおれを見ている。

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