処世術
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「処世術」
「自業自得」を3Dプリンターで作ったような人生を送っているぼくに、夢と希望をもって社会に出ようとしているみなさんに何か言葉をとゆう機会を与えられました。
ぼくのようなものが出てくると、目の前に黒猫が飛びだしたような不吉な気分になる人もいるかと思いますが、せっかくですから、三つの処世術をお話しようと思います。
何を隠そう、ぼくには友だちが一人もいません。女房に言わせれば、人の悪口をすぐゆうかららしいのですが、そんなことはありません。
ぼくほど気ぃを使う者はいません。しかし、それをわかってくれないと、「なにや、あいつは」と思うことはあります。いつしか、それを態度に出したり、家でそれをゆうたりすることはあるような気がします。そんなわけで、友だちがいないのは天地神明に誓ってほんとうです(そんなもん誓っても仕方ありませんが)。
「人の不幸は蜜の味」といいますが、「人の悪口はピリ辛味」かもしれません。料理にスパイスや唐辛子を入れると食欲が進みますが、だんだんそれに慣れてきて、もっと入れたくなりますし、口内炎でもあると、しばらくヒリヒリしますから要注意です。
それで、最近は悪口を言わないようにしているのですが、世間ではネットが普及していることもあって、悪口はすごいですね。
最近、選挙の応援演説で、反対陣営の候補者を「人間のハゲ」とゆうた人がいました。
まちがえました、「人間のクズ」でした。「人間のハゲ」は悪口をゆうた人でした。
相手が(今は都知事ですが)、以前いた政党をサッサと辞めたとか、新しく作った政党を解党するとき政党助成金を「ポッポにないない」したとか、下半身がだだらしなく結婚離婚を何回も繰り返しいるとか(あちこちに子供が何人もいるそうで)で、「人間のクズ」とゆうたわけです。
人は、抽象的な悪口を言われても、案外怒らないものです。
「おまえはあほや」とゆわれても、「あほちゃいまんねん、バカでんねん」となりますが、「何であんなことした?」と具体的なことを指摘されると、逆ギレを起こす場合があります。
「クズ」はどうでしょう。抽象的ではありますが、どんとこたえる言葉です。しかし、ゆわれた候補者はぼくと同い年で、昔の旺文社模試の全国1番です(ぼくは何十万番です)。
ただ、心当たりがあったのか無視しました(それのほうが選挙では有利です)。
処世術の一つ目は、「人間のハゲ」のように(ほめられたことではありませんが)、人に何か意見をする場合は抽象的に言うことです(相手を追いつめると、長引きます)。
さて、みなさんは長かった「就活」を終えて社会に出られるわけですが、社会はいろいろな人でできています。つまり、それぞれが「終活」や「婚活」、中には「妊活」をしている人もいます。
そして、全員が、「生活」をしているわけですが、「生活」においては、「すんだことを思いだして、くよくよしないこと」が処世術の二つ目です。
失敗の反省は大事ですが、そのときの情景を具体的に思いだしたりすると、自分がしんどくなるだけです。
だから、失敗のエキスだけを(もちろん自信も)取りだして、生きるエネルギーにするのです。
「生活」はまだ終わっていなくて、エネルギーは必要です(過去のことをくよくよ、めそめそするのにエネルギーがいります。
だから、「すんだことを仕方がない」と思えることが人生で一番大事なことかもしれません。
今年は60年ぶりにアカギレに悩まされています。今年の寒さは、老化が進む皮膚の限度を越えたようです。
いろいろなハンドクリーム、バンドエイドを試しましたが、なかなか治りません。
それこそ、「生活」がありますから手を使わないわけにはいきません。おしっこするときにズボンのチャックを開けるときも、ビールの栓を開けるときも、ドアノブを回すときも、とにかく痛いのです。
つまり、「生活」とは人や物と触れあうことだとわかりました(ここに来て、少し気温が高くなって、やや楽になりました)。
過去のことは振りかえらずとも、今は感覚を研ぎ澄まして生活をしようというのが三つ目の処世術です。アカギレが教えてくれました。
つまり、「ヒヤッとした瞬間を忘れるな」です。トイレの個室に入って座るときのあの飛びあがるような冷たさ!これは血圧に悪い。「だれの責任や。訴えてやる」とゆいたいが(ダチョウ倶楽部の上島の専売特許と思うていましたが)、節電のために時間設定したのはぼくでした。
「生活」はすべて自分の責任だとゆうことを忘れず、自分の夢に向かってがんばってください。