SAY少々納言
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「SAY少々納言」
PMとくれば、11(イレブン)なれど、近頃は2.5となりぬ。
我より後に生まれし鴨長明が言うとおり、「ゆく川のながれは絶えずして しかも本の水にあらず」なり。
PMが、2.5と続く所以(ゆえん)は、中国からの飛来物の故なり。
商売がおもしくなりせば、中国では、「ともかく商売」にて、工場や火力発電の煤煙を垂れながしている「つけ」が、まさに国に降りかかってきたかのようになりぬる。
このままでは、六人に一人が肺がんになるとの予測ありて、人は、国主導の日本製品排斥ものかは、競って日本の空気清浄器を求めぬ。
流人(るにん)さえいぬ小さき島を巡りて、鞘当ての最中でありぬるが、「ここは、反日より命が大事」(「ツイッタ-」と呼ばれし「電子囀り」から)と、人が考えを変えたのは賢明なるべし。
後は、中国が、自国の人、他の国の人の健康を慮(おもんぱか)るやいなやなり。
中国がどのような道をたどろうと、また、欧米が感じているように、「中国は風変わりな国」だとしても、戦(いくさ)だけは絶対に避けねばならぬなり(中国人は、「自分の国が一番で、他の国は、中国を敬わなければならぬ」という「中華思想」が根強くあれど)。
戦は、愚かなものが行う愚かなことなり。なぜなら、力づくで人を押さえつければ、必ず恨みが生じるからなり。
この度の反日行動でも、「日清戦争の敵(かたき)を取れ」などという声があると聞くが、我を通したほうは忘れても、恨みをもったほうは忘れないという証左なり。
とにかく、戦は避けるべし。イスラム圏での反米闘争などを見るがごとく、恨みは恨みを生み、何も知らない子孫にも伝わるものなり。
土耳古(トルコ)が親日的なのは、明治二十三年、自軍の軍艦が和歌山沖で台風のために沈没したとき、地元の漁師が懸命に救助したためと言われしが、捨て身の献身は、明るい光明のごとく、二国を照らしだすものなり。
大人が、処世で一番気をつけていることは、他人から恨みを買わないことなり。
商いで、取引をやめざるをえないときは、なぜそうなったかを情理を尽くして、相手を得心させるのなり。
国も同じこととて、たとえ相手に不利なことを言わざるをえないときは、堂々と、毅然と言うべし。
ただ、今の日本には、政(まつりごと)をするもの、商いをするもの、役人、また、子供に教えしものの中に、その任に値するもの少なし。
原発事故の後始末、あるいは体罰の後始末などを見れば、自分の責任をかけて話すものなし。みな他人に責任をなすりつけてでも延命を図るものばかりなり。
また、詩や小説を生業(なりわい)としているもの、神や仏に仕えるものも、どう生きるかに言及するものなし。
それなら、役立たずの厄介者と嫌われている老いたるものが言うべし。「老いたる馬は道を忘れず」というがごとく、保身のために口をつぐむものに代わって言うべし。
「恨みを買うことは末代までの重荷なり」と。
今こそ、活動しているのは膀胱だけではないことを世間に知らしむべしときなり(過活動膀胱)。