老婆は、一日にして成らず

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「老婆は、一日にして成らず」(2)
前回は、高速道路の料金所で100円玉と1円玉をまちごうたとゆうた。
プチショックを受けたのは、次は、小銭がわからなくなって、スーパーのレジで、「ねーちゃん、ここから取って」ゆうて、手のひらに小銭の山を作る「おじい」のようになるんちゃうかゆう不安があるからやろか。
まだ不安材料はある。出先まで、車で迎えにきてもらうことがあるけど、2、3回他人の車に乗ったことがある。
それも、ガンとあけて、助手席に乗り込むと、どうも様子がおかしい。横を見ると、いつも主婦のような女性が、「何!?」ゆう顔をしている。
あわてて車を降りるけれど、夜やから顔がはっきり見えてへんからええやろ、おんなじような車で、目の前に止まるほうが悪いと思うようにしているけど、気持ちのええもんではない(アメリカやったら、「ギャー」と叫ばれて、パトカーが来る状況や)。
昼間に、これをやりだすと、救急車が来るかもわからへんけど、原因を冷静に分析すると、「早とちり」と「老眼」の「相乗効果」(?)で、別に心配はないと結論が出た(ほんまか)。
「早とちり」は性格によるところが大きいけど、「老眼」はいかんともしがたいので、これは注意せんとな。
せやけど、「老婆とその連れあい」は、「成る」のではなく、「成らされる」とゆうところもある。それに負けるかどうかや。
今でも、フルマラソンを4時間ぐらいで走る自信があるけど(60才で、2時間40分で走る人も知っているけど)、世間は、姿形(すがたかたち)で判断するもんや。ぼくも、若いときは、ひょっとして今も、そうしてきたような気がする。
自分が、年を取っていくと、人生は変わらへん、つまり「どうしようか」、「どれにしようか」の連続やないかゆうことがわかってきた。
「一人で生きていこうか」と人生を密かに設計することもあるやろし、前立腺がんになったら、「生か性か」と選択を迫られる(せやけど、深作欣二監督のような人は少ないやろ)。
そして、「終わりければすべてよし」とゆうことが、痛いほど、いや痛い目に会ってわかってきた。
幸い、若いときと比べて、脳みその中身はそう変わらへんゆう研究結果が出てきているで。信じられへんけど、創造性なら、年取ったほうがすぐれているゆうこともあるんやて。
つまり、認知症ならいざ知らず、今が、ぼくらの実力とゆうわけや。いいわけはでけへん。
老化は、「老眼」だけやったんや!
これからも失敗はするやろ。温泉で、女風呂と男風呂をまちがうこともあるやろ、また、人ごみの中で、自分の嫁はんとまちごうたゆうて、若い女性の手をにぎることもあるやろ。こんなことは、みんな老眼のせいや(そりぁ、色ボケかもしれんてか)。
死ぬちょっと前まで、自分から逃げられへんとゆうことや。念のため。

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