プレスリー(2)

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「プレスリー」(2)
才能あるもんは、才能あるもんと激しくぶつかることをゆうた。
特に、自分と同じ道を行くもんを許さへん。自分の才能の高さを自負しているのやろな(村田英雄と三波春夫の間もようゆわれたけど、営業的な仕掛けがあったらしい)。
ぼくらの場合は、隣近所でもめるけど、生活が似ているから、イラつくのやろか(国同士も、そうゆうとこがある)。
もっとも、ぼくらの場合は、あんなやつの顔は二度と見とうないと思うていても、ちょっと話をすると、すぐ仲ようなって、「ちょっと鍋でもどうです?」となる(「浪速のモーツアルト」のキダタローは、嫁はん以外のもんと、鍋は絶対いやらしい。「だって、鍋につばが入りまっしゃろ」とゆうことや)。
才能あるもんは、才能を形あるものするために、命を削る。つまり、人生を二つ、三つ同時に送っていると思う。これがでけんと、プロにはなれん。しかし、途中で、小さな幸福に満足して、才能を生かすことをやめたもんはなんぼでもいるやろ。
王以上にホームランを売った四番打者や、ドストエフスキー以上に心の奥底を表現した作家や、エジソン以上に発明をした発明家がいたかもしれん(もっとも、エジソンがいなかったどうなっていたかと聞かれて、別のもんが発明していたゆう評論家が多いけど)。
しかし、そうするためには、自分の心や体が股裂きになって、薬に逃げたり、奇行に走ったりする。
プレスリーは、睡眠薬と覚醒剤をむちゃくちゃ飲んで、42才で死んだ。三島由紀夫も、年を取ることは醜悪であるとゆう美学を持っていたので、妙な世界を作って、45才で死んだ。太宰治も、同級生と屋台で飲んでいたとき迎えにきた女と、帰り道多摩川で入水自殺した。39才やった。同級生は、あとでマクドナルドを起こす藤田田(でん)やけど、藤田は、本気で死ぬ様子はなかった、きっと冗談だったはずやとゆうてる。
確かに、人生を同時に2つも3つも生きることはむずかしい。昔、田舎で、自転車に乗って、もう一台自転車を動かす大人をよう見た。
自転車屋が、修理を頼まれたか、あるいは、親が、子供がどこかに忘れてきた自転車を持ってかえっていたかもしれんが、あれは、なかなかの技術がいって、かっこよかった。
時々、まねをしたが、何キロも無理やな。それとはちがうか?
理想と現実の狭間で、精神異常をきたす人もいるやろ。あれも、「ほんまはこうやったんや」とゆう思いが強くて、二つの人生を生きているんとちがうか。
ぼくのように、亀のようなマラソンをする人にはわかるやろけど、「ここまでやった。もう少しや」ゆう達成感がないと、残りが走られへん。これは、才能のあるもんにはわからんはずや。同時に、人生を、二つ、3つ送れんでも、縦に2つぐらいやったら、ぼくらにもできる。途中で「やりなおし」するようになっても、新しい人生と思ったらええねん。
「長生きも芸のうち」ゆうやろ。のんびり、楽しい人生を送りまひょ。

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