教える(2)
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「教える」(2)
善意に自己満足が入るともめるとゆうた。もう少しゆうと、入りすぎる、とな。
たとえば、家に、猫を何十匹と飼うて、猫のために(みんな野良猫やで)、マンションが、2つ,3つ買えるほど金を使うた人を知っている(病気になると、MRIも受けるんやで)。それでも、まだ満足でけんで、毎朝4時ごろ起きて、自転車に乗って、えさをやりにいっている。近所の人には、「ええことしてると思うてんのか!」と怒鳴なれても、「せやから、人間は嫌いや」とやめへん。
こんなことはようあるな。あちこちの公園の鳩、芦屋の猪や。味しめて、人に近づく。最近では、加茂川のトンビが、空から急降下して、弁当を取るらしい。
えさををやる人も生きにくいやろ。「草枕」のように、「兎角(とかく)に人の世は済みにくい」と思うて、動物をかわいがっているのにな。まあ、「頃加減」がないと、しんどいな。
ぼくの場合は、自己満足ゆうても、道をうまいこと教えることやから、金がいらんからええ。せやけど、ぼくでも、適当に教えたろと思うときがある。だれかが、車から降りてきて、「どこそこ知ってるか」とか「あそこは、どういくん」てな調子で聞いたら、むっとする。よりによって、教えることについて(ただし、道順だけやけど)、日々苦しんでいるおれに向かって、そんな聞き方をするのかと腹立てながらも教える。こいつには、反対教えたれと思わへんけど、最後の「ツメ」はゆうたらへん。「3番目の信号。そこに、ローソンがありますから気をつけて」。
そのくせ、そんなもんにも、もうちょっとていねいにゆうたらよかったと後悔してしまう。
ある人が、ブラジルへ行ったとき、道を聞いた4人とも、ちがうこと教えたゆうて、笑うてたけど、なんかうらやましいわ。お笑いタレントが、渋谷のチーマー(もうゆわんか)に、道を聞いたら、「あの信号右に行く系」ゆうたらしい。「いまどきの若いもんは」ゆうて怒っとった(本人も若いけどな)。何でも気楽がえのやろか。
それから、教えられる方、つまり聞く方も、気を使うな。地図持って、うろうろしている人には、だれも聞かへんやろ。「私ら、ここのもんですねん」ゆう「いずもや」みたいな人に聞きたいけど、あせっていると、「ここははじめてです」、「知りまへん」と空振りや。
「教える」ことは、学校だけやない。世間は、「教える」ことで成り立っている(せやから、ぼくは、ぎこちないのか)。中には、「何でも聞いてや」とゆうアホもいるし、「困ったことがあれば、相談に乗るで」と、メシの種をさがしているコワい人もいるけど。
世の中には、意味もなく話すやつがいるやろ。話を聞いていると、頭が痛くなる。そうゆう話は、雑音のかたまりのようやし、時間つぶしでしゃべっているように思えるけど、「教える」とゆう視点から考えてみようか。ああゆう連中の特徴は、人の話を聞かんことや。
昔、おばちゃんが話をしているのを聞いていたら、3時間ほど、両方とも、自分のことだけを、平行してしゃべっていたことがある。どちらも、自分を「教える」ばっかりで、「教えられる」ことをせん。また(3)になってもうた。