ライフ
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ライフ」
最近大阪や神戸へ行ったときやスーパーで買い物をしているときに出会うおばはんが筧(かけひ)千佐子に似ているように思えてしゃあない。
それも一人や二人ではない。前から来るおばはんのほとんどがそう見える。
この前、イオンにいたときやけど、釈放されたんかと思うほどよう似ているのがいた(念のためにゆうとくけど、おっぱいがHサイズとか口が歪んでいるとかで有名な二十歳の筧美和子ではなくて、何人も毒殺したとゆわれている67才のおばはんの筧やで)。
もし、筧がうろうろしていたら狙われるほど金もっているんかゆわれるかもしれんけど、それはない。
そんな金があったら、もう少し若いのに行くわ。今はそんなことをゆうている暇はない。
「おばはんはどうしてよう似てくるのか」ゆうのが本稿の主題である。
まあ、おばはんはやつすのがめんどくさいので髪の毛を短うする(長くしているのがいると気味が悪いときがある)、顔の造作(ぞうさく)が筋肉の緩みで同じような形状になってくるとゆうのがぼくの推理や。
しかし、筧千佐子は、若いころは、えらいベッピンで、頭もよかったらしい(どこの大学でも大丈夫とゆわれていたらしいで)。
つまり、ベッピンでも、ブスでも同じ一つの顔に向かっているのや。それなら、男なら、イケメンでも、ぼくのようなブサイクでも、同じ一つの顔になって行くのやろか。
年を取ると、ベッピンやイケメンは人生の悲哀を感じ、ブスやブサイクは人生の慈愛を感じるとゆえるわけや。
つまり、60年、70年立つと、あいつらとそう変わらん顔になってくるとゆうことやな(ちょっと長いけど)。
ただし、顔は似てくるけど、他は似てないのは、何を考えても、ゆわんかぎりは人にとがめられることはないからや(「何しても自由」とは行かへんけど)。
とにかく、年を取るとええ話はそうない。あっちが立てば、あれが立たず(ちごたか)の話ばっかりや。
それならと、ぼくは、どんなことが起きても(病気になっても)、それを、そして、それに向かう自分を楽しもうと決めた。
どんなことでも、何らかの結末を迎えるわけやから、少しでもましな結末にするためには、余裕のある心で判断したいからや(キンチョーしいやからな)。
そして、また考えた。反省すれど後悔せず。これがぼくの人生訓にする。何かの拍子に、えらい昔のことを思いだすようになった。相手は怒っているやろな。あんなことゆうてしもた後悔するのはほんまに辛い(かなり重症のノイローゼや)。
ゆうてしまったこと、してしまったことはしゃあない。もうどうしようもないのやから、気にせんようにした。我ながらええ人生訓を考えたもんや。
まだ、50年以上の前のことが出てくることがあるけど、かなり収まってきた。出てきたときは(おばけやな)、あいつは、そんな昔のこと忘れているやろけど、覚えていても、もうすぐ、その嫌な思い出とともに、この世からいなくなると思うようにしている(お互い年を取ると、相手を殺すこともできるもできる)。
年を取っても、だらだらするのではなくて、それなりの生き方を考えることも大事や。
高速道路を逆走して世間に迷惑をかけるのではなく、人生を逆走して自分を取りもどさんとあかん。
スマホデビューしたもんには、「スマホはアプリと設定や」と教えまくっているけど、顔とゆうアプリは似たり寄ったりやから、設定をちゃんとせんとあかんわけや。
残り人生は長い。つまり、何が起きるかわからんわけや。元気をつけるために、ナオト・インティライミの「ライフ」とゆう歌を聴いている(ユーチューブで)。
♪劣等感ずっと抱えていたのにね きみとならば強くなれるんだ♪
そして、♪一切合切うらみつらみなしで♪この世を去ろうとゆうわけや。今日も、救心飲んでがんばろうっと。