人生の断片
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「人生の断片」
「なぜ生きるのか」は勝手に考えてもらって、今回は、「どう生きてきたか」を振りかえって、今後の人生の指針としてもらおう。
50年ほど前に、アメリカのドラマが大人気やった。テレビは、金持ちの家から、順番に家庭に入ってきたけど、日本には放送するもんがなかったんやろな。
「ララミー牧場」、「ローハイド」、ぼくが好きやった「バットマスターソン」などの西部劇、「ルート66」、「ハワイアンアン」などのおしゃれなもん、「名犬ラッシー」、「名犬リンチンチン」ゆうのもあった。こんなん書きだしたら終わらへん。
「うちのおばあちゃんは、アメリカの西部劇を見て、『この外人、日本語うまいなあ』ゆうた」ゆうのが、そのころの社会を表す言葉やと思う。
雑誌の投書欄でも、「うちのおばあちゃんは・・・」と、この笑い話の盗作ばっかりやった。
ぼくのおばあちゃんは、そんなことはゆわんかったけど、「あそこの子は、大阪のマンホールに住んどるらしい」とはゆうてたな。「それは、マンションやろ」と突っこみたかったけど、そんなもん見たことなかったので、黙ってた。
その後、カラーテレビが出てきたけど、最初、テレビを見たときの驚きのほうがすごかった。
時は流れて、ファックスが出ると、最初は、ものすごいものができたと思うたけど、電話より早う研究されていたらしいな。恥ずかしいけど、時々、送ったものが消えてなくなるのとちがうかと心配した。
「ファックス送って」とゆわれて、ファックスの機械を荷造りした人もいる。うそ、うそ、漫才の「ますだおかだ」のネタや。
そうして、ケータイ、コンピュータが出てきた。最初は、コンピュータは、万能の機械と信じられていた。
役所でも、企業でも、クレームが来ても、「コンピュータがしておりますので、まちがいありません」と、あほの一つ覚えの弁明で、そうゆわれたら、市民も客も、何にもゆわれへん。中には、結婚の相手を、「婚ピュータが探します」とゆうところが現れてけど、今、そんなことゆうたら、「人間が、情報を入れているだけやろ!」と話がややこしくなる。
当時(20年ほど前やけど)は、社会も、マスコミも、コンピュータも、まちがうとゆわなかった。だあれも、ようわからなかったんやな。
せやけど、自殺サイトなんかを見ていると、ケータイやパソコンは、自分の人生を広げるというより、自分を、狭い道に追いやるようなところがある。
これから、ぼくらが知らんものが出てくるやろ。それを無視して、生きることはでけへんから、人生の役に立つようにせんとな。「文明は善か」と迷うところやな。
しかし、今の子供は、大人とおんなじものを持ち、おんなじものを食い、おんなじ生活をしている。大人になったらとゆう楽しみがない。かわいそうや。