抱負

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「抱負」
宝くじで7億当たった人も、何かに当たった人も、1年がはじまった。
何かゆうてもBIGとか競馬やのうて、車や電信柱なんかに当たることなんやんけどな。
ぼくも、今年は当たらんようにしたいもんや。
「今度はこいつに宝くじを当ててやろか」と思うてはる神さんがいたら、「それならやめる」と気を悪くせんといてください。
くどいですけど、宝くじはそのままぼくに当ててください。7億ゆわんでも、1億でかまいません。それで、今後の人生は大きく変わるのですから。寄付もしますよってに(せやけど、7億当たっているかもしれんわ。毎日ドキドキするために、夏のジャンボまで、年末ジャンボを確認しないことにしているので)。
ぼくが当たりたくないのは、そこらへんにある固いもんや。最近それに当たってこける。
ついこの前も、朝方ジョギングしているとき、近所の家にちゃんと入れてある車に右足が当たってこけた。顔、左足強打で、まだ傷が痛い。
なんぼ早朝でも、街灯がついていて暗いことはない。それに、監視ライトが道の反対側でもパッとつく家がある(それはそれでむかつくけど)。
小脳梗塞で方向感覚が狂っていることもあるかもしれんけど、調子に乗ると、目をつむるクセがあるのや(両方の原因で、知らずに右へ右へ行くようや)。
年末には、焼肉屋を出たとこで道が左なりに曲がっていて、溝に落ちた。一緒に行った連中は、ぼくがいなくなったとあわてて、ぼくの名前を呼んでくれたけど、胸を強打して、声が出せんかった。
ようやく見つけてくれたけど、溝にたまった木の葉に埋もれていたらしい。
そんなこんなで、向こうから来る人、止まっている車、バス停の柱などにもぶつかる。
今のところ、笑い話と痛い話で終わっているけど、走っている車に当たったら、息をするのが終わりになる。
それは、今しばらく堪忍してほしいから、当たらないことを抱負にした。
ところで、「抱負」と「目標」はどうちがうか気になったので、辞書やネットで調べたら、まず「目標」(「計画」や「希望」でもええけど)があって、それに到達するためのものが「抱負」らしいで。つまり、夢を実現するために、毎日することが抱負なんや。
それなら、「まず目標ありき」で、後から「抱負」がついてくるわけやけど、大した目標がないけど、「毎日新しいこと」を暗記するとゆう、ぼくの「抱負」どうなんや。
子供の時から、試験が悪くても、「他人が考えたこと、ゆうたことはおぼえる気がしないだけ」と密かに自己弁護してきたけど(それは歴史上の天才から教師まで含む)、60すぎてから、急に何でもおぼえたくなった。
気象予報士に出てくる数式から、コンピュータや医学の略字(NASとかMRIとか)まで、何でもかんでもおぼえる。
ロープの結び方を50ほど(船舶の免許では「もやい結び」が試験に出た)、星座を80ぐらいおぼえた(「トレミーの星座は北半球44個やけど)。それを忘れていないか毎日実演したり、口に出したりする。
血圧の薬や眼圧の目薬を使うときは、今使っていないのも含めて、それぞれ10個ずつゆわんと気がすまないので、まわりから「めんどくさい」とゆわれる。
62才で円周率を10万桁暗記した日本人がいるから、頭の倉庫は余裕があるけど、何でこんなことがおもろくなってきたのやろか。
目標がないゆうても、ほんまはあるのちがうか。小学校のとき、「物知り博士」とゆわれていたので、60年ぶりにそうゆわれたいのか。
何かそらでゆえるようになると、宝物が増えたような気がするから、金が貯またん代償行為かもしれん。
人生は何が起きるかもしれんから、このままゆくけど、人生とは妄想でできているような気がしてしゃあない(失敗しても成功してもや)。
宝物の星座は、それぞれギリシャ神話やローマ神話の「謂(いわ)れ」があるのやけど、日本神話なんかも含めて、意図があるなしにかかわらずみんな妄想やろ。
ぼくは、妄想のほうがしっくり来る。たとえば、天動説の「天球」や。お日さんが、地球の赤道に対して23.4度の角度で回るのや(黄道やな)。
ぼくの頭の中では、地球は桂枝雀の顔になっている(落語の「蛇呑草」を演じるときのように、夏至のお日さんに禿げ頭をカッと照らしているんや。
政治も会社も宗教もみんな妄想や。総理大臣も社長も官長も、世間は自分のまわりを回っていると思うている。
つまり世の中は天動説と天動説のぶつかりあいなんや。それのほうが気持ちええからな。
ぼくも、枝雀の地球のように、お日さんが来るのを見ておこう。当たらんように気をつけて。

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