ごみ(1)
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ごみ」(1)
この前、母親が死んだんやけど、この5,6年は体調が悪くて、最後の2年は入院していた。ぼくは、近くの病院を選んで、ほとんど毎日顔を見にいった。子供としてやりのこしたことが多いけど、量だけゆうたら、親子がしゃべる一生分ぐらいしゃべった(もっとも、向こうは聞いているだけやったが)。
母親と息子ゆうもんは、あんまりしゃべらへんもんやろ。特に、ぼくの場合は、母親が、結核かなにかで、ぼくを生んでから10年近く入院していたから、親子関係が気詰まりやった。家で生活するようになっても、祖母とぼくの間には入られへんかったんやと、あとから人に聞いてわかった(ぼくは、子供心に、冷たい母親やと思うとった)。
ベッドの上で、しゃべることもできへん姿を見ていると、何を考えているのやろと思うたが、よう考えてみると、母親が、ぼくに、自分のことをしゃべったことがなかったのに気づいた。
「女三界に家なし」ゆうやろ。昔は、女ゆうもんは、父親、夫、息子に従うべきやと教えられてきた。
戦前から戦後にかけて、男は、価値観の劇的な変化について、声高にしゃべってきたけど、女、特に、母親は、心に思うことがあっても、何もしゃべらず、夫や世間についてきた(それが、あかんのや、女が意見をゆわんかったから、戦争が起きたのやとゆう意見があるけど、今は、それはおいとく)。
せやけど、もう自分の子供が、徴兵検査なんかに行かんでもようなったとゆう喜びを胸に秘めて、毎日の生活のやりくりをしたんやろな。
そして、戦後10、20年立っても、嫁がほめられるのは、「あそこの嫁は、中風の舅(しゅうと)を、7年間も家で世話をした。しかも、床ずれは、一つもなかった」とゆうようなことやった。
まだ「女三界に家なし」の考えが残っとんたんやろか(今、こんなことをゆうたら、フェミニストとか、ジェンダー学者とかゆうもんに、血祭りにされるやろな)。
逆に、男は、少々「でき」が悪くても、ノーテンキなもんや。
父親は、家族を守るもんやけど、家族も、父親についていかんとあかんと、世間が後押ししたからな。「かいしょ(甲斐性)」や「人徳」がなくても、なんとかなった。
「人形の家」のノラのように「私は出ていきます」とゆいたい母親も多かったやろな。
せやけど、そんなことをすると、子供が不憫やと、じっと我慢してきたんやろ。
ぼくの母親も、晩年は、父親がむちゃくちゃゆうから、「一人で、老人ホームへ行く」と泣いとったらしいけど、ぼくも離れていたし、近所や親戚のもんも、「まあまあ」となだめたらしい。それを早く聞いとったらとゆう思いがあるから、できるだけのことはした。
「団塊の世代」の親は、明治後半から昭和5年くらいまでの生まれや。今、人生の最後を迎えている。もう1回だけ書く。