3D

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「3D」
この前、電気屋に行くと子供がぎょうさん集ってほたえていた。なんやろ思うていくとテレビを見とる。
3Dテレビやなとわかったので、誰もいなくなってから、ぼくもメガネをかけて見た。
確かに立体的に見えるけど、それどうしたぐらいのもんや。「アバター」なんかの映画では、こっちへぶつかってくるように見えるのがおもろいのやろな。
メーカーや販売店は、「大型の次は3Dや」と意気込んでいるそうやけど、そう売れてへんらしい。
「サッカーワールドカップ」が、「ミッチーブーム」、「東京オリンピック」のようなきっかけにはなってへんのや(監督のことはもうゆわへんけど、アフリカが遠いのは好条件やのに、あの成績ではな)。
今はケータイ、パソコンが当たり前になって、iPodやiPadやと、新しいもんがどんどん出てくる時代やけど、ドキドキする度合いは、50年前とそう変らへんような気がする。
子供のとき、赤いジャンジャン紙のメガネで絵ぇを見ると立体的に見えたで。
カラーテレビもあった(三色だけやけど。「うちはカラーテレビや」と自慢していたけど、あれ誰が考えたんやろ)。
その「アバター」やけど、若いもんが大阪に行って見てきたゆうていたから、「どうやった?」と聞いたら、「あの迫力はすごいですよ」と興奮していた。
話の筋を聞くと白けるからやめたけど、「タイタニック」を作った監督は、何かゆいたいから、「アバター」を作ったんやろけど、3Dに負けとるのとちがうか。
大型テレビができたとき、あんまり大きすぎて、画面の端には、スタッフや関係ないもんが写るんやないかと心配したけど、3Dも何かが飛びだしたとき、その後ろにいるもんが見えることはないのやろな。
人間は、自分の感覚を満たすためには大金を払うもんや。観光地や旅行会社はそれでもっている(今や何億ゆう金を払えば宇宙にもいける)。
そして、金がなくても、テレビで、「偽もん」を見ることができる。
口蹄疫がまたぶりかえしてきたそうやけど、殺された牛や豚が何十頭と埋められる光景は見たくないなあ。
「名前を呼べば寄ってくるんですよ。本人も、立派な肉になりたかっただろうに」と飼い主の涙顔を見ると、金子みすずを思いだすわ。
「大漁で人間が喜んだ日は、海の中では、何万とゆうイワシの葬式がある」とか「人間の子供が雀を捕まると、その子供の母親は笑っているが、雀の母親は、屋根からそれをじっと見ている」とゆう詩がある。
この人ぐらい対極を見ていた人はいないやろ(ぼくのおばあちゃんと同じぐらいの年やけど、おばあちゃんを見直したわ。なんでや!)。
金子みすずの詩を発掘した人の講演を聞きに奈良の寺まで行ったり、仙崎の金子みすず記念館まで行ったりしてきたので、ここで、金子みすずに敬意を払って、ぼくも言葉を考えた。
有名な「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」という詩句を下敷きにして、「ないものは見えないんだよ それでも見えたらビョーキだよ」はどうや(なかなかの出来や)。
沖縄の基地のことでも、アメリカと約束していることが前提ならば、基地を廃止できるのは、「駐留なき安保」か「安保廃棄」しかないやん(米軍基地を廃止したフィリピンは、中国に領土を取られたやないかなどとゆうてばっかりいたら次進まへんで)。
ほんまは沖縄になんぼか小遣いやって辛抱させるつもりなんやろ。
ぼくは、安保を廃止したらええと思うているけど、「アホか。雨戸がなかったらドロボーが入るやろ」とゆうやつが必ずいる。
戦争でも、国民もそう願ったゆうもんがいるけど、そうさせたんは軍人や政治家やろ。
一つ追加するわ。「見えるものでも、見えないと主張するのがいるんだよ」
政治でもなんでも、人は自分を代表して発言する(わあー、哲学的!)。
せやから、真理をゆうてへんことが多いから、鵜呑みにせずに、その主張の裏に何があるか考えることや。
それなら、3D用のメガネはいらん。誰でも、自分の色メガネをもっていることやし。

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