「接して漏らさず」あるいはチュートハンパ考(3)
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「接して漏らさず」あるいはチュートハンパ考(3)
そうやな、藤あや子と二人だけで無人島に取りのこされたら、ほとんどのもんの「寝た子」は起きるやろな(せやけど、この設定は中学生がようするやつやな。もしそうなったら、藤あや子も、着物を着た妖艶な格好やないやろし、魚捕まえてかじっているはずや)。
それはええのやけど、電車の中、会社の中、真っ暗な通りを、無人島と勘違いする「寝た子」がいる(最近、家に帰っても、ずっと寝たままの「寝た子」が問題になっているけど)。
へんなときに「寝た子」が起きないようにするために、まず「あめちゃん」に近づかないことやな。君子危うきに近寄らず、とゆうことや。
せやけど、社会で生きていくためには、そうばっかりでけへん。
それなら、「接してもらさず」を会得するしかない(「わしは、いつも『接して漏らさず』や。いつも途中で寝てしまうからな」は話にならん)。
この言葉は、貝原益軒が、「養生訓」で長寿のための「なんやかんや」を解説している一つとゆうことは誰でも知っている(元々中国の教えらしいけど)。
家庭円満、老後の健康などが、一つのキャッチフレーズに入っているのはさすがやけど、これ以上「考察」するといやらしいと思われるからもうやめる(手遅れかもしれんけど)。
ところで、前回もゆうたけど、坊主の修行は、人里離れる寺にこもって行なわれる(キリスト教なども、修道院で自給自足の生活をする)。
哲学者の梅原猛は、今の仏教が腐敗しているとずっと批判しているが、エライ坊さんが、祇園で遊ぶことは、寺にこもっての修行より高いステージの修行かもわからんで(千日回峰なら、なぜかマスコミに知られるようになり、世間の応援があるけど、祇園で遊ぶ修行は、顔が指さないようにする工夫、領収証の処理などのチエもいるしなあ)。
ぼくらも、いろんなものに接する修行をせんとあかん。それは、オンナだけでなく、ギャンブル、クルマ、趣味、旅行、ついでに事業などにも接して、漏らさないようにするのや。
「接して漏らさずで、漏らさないのは、あれではなく、「気」やとゆう学者もいるけど、この場合も、「気」や。「もっと気を入れてがんばれ」とゆわれるけど、あるところで、寸止めするのはむずかしい。どんどん深入りすると、他のことがおろそかになる。
これをチュートハンパと思われるかもしれんけど、ほんまのチュートハンパは、へタレ、根性なしとかではなく、自分の人生を考えつつ、行くか戻るかの深い思慮に基づくもんや。
つまり、チュートハンパの最高の形態が、「接して漏らさず」なんや。
これを会得するのは、失敗、挫折などの人生経験だけでなく、シーソーの上でバランスを取るような感覚がいる。
そして、このツライ、ツライ修行をこなすと、自分と別人格の「寝た子」に振りまわされたり、挙句に、年取ってから、カッコ悪いことをしたりせんでええ。しかも、やるべきほどのことはやったとゆう満足感で死ねる。
これで、藤あや子と二人だけで無人島に取りのこされても平常心でいられる(まだゆうか)。