シーラじいさん見聞録

   

しかし、意識は朦朧となることがあった。大きな体が横になり、ふわふわと浮き上がろうとした。
そうなって、暗闇の中を漂えば、食べものに飢えた魚がどこからともなく近づくのだ。
しかし、シーラじいさんは、ときおりぴくっと体を震わせ、また体勢を戻した。
そのとき、「このあたりでは見かけぬ顔じゃな。けがでもなさったか」という声が響きわたった。
それは、クジラやサメでも怯えるような、野太い男の声だった。しかし威嚇するようではなかった。
わたしたちは、飛び上がるほど驚いて、あたりを見回したが、その声に匹敵するような影はなかった。
シーラじいさんも、その声を聞いたのか、大きな目を開けた。
「ああ、マウか。わしじゃ。シーラ・デヴォン・ンジャジジャだ。お前を待っていたぞ。
お前を探しにきて、このざまだ。魔がさして国を出てしまった。
すると、罰が当たって、何かがぶつかってきた。わしは、そのまま地獄へまっさかさまだ。
でも、お前と会えるのは何よりだ。また、ゆっくり昔話もできるというものだ」
疲れているのか、息もたえだえになりながらも、大きな声を出した。
「鰭も一つ失っていなさる」また、その声が聞こえた。
「これは、兵隊のときに、凶暴なタコと格闘して噛み切られたものだ。それを、お前が助けてくれた」
「お前さんも、マウとやらも、勇敢な兵隊だったんだな」その声の持ち主は、シーラじいさんのかぼそくなった声を、ちゃんと聞いていたのだ。
「えっ、お前は、マウじゃないのか」シーラじいさんも答えた。
「お前は一体誰なんだ」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。わしは、わしじゃ。わしらには、名前をつける習慣がない」
「どこにいるんだ」
「お前さんの近くだ」
シーラじいさんは、少し見回したが、マリンスノーがゆっくり降っている暗闇が広がっているだけだった。
そのとき、シーラじいさんの近くの海底が、少し動いたかと思うと、砂煙が高く巻き上がった。
わたしたちは、竜巻でも吹いたのかと思っていると、その中から、黒々としたエイのようなものがあらわれた。体は、縦も横も5メートルはある巨大なものだった。
わたしたちは、思わず岩陰まで逃げて、様子をうかがった。
そのものは、しばらく立ち上がっていたが、またその場にしゃがみこみ、大向けになった。
「行儀が悪いけど、わしは、こうしかできなくてな」
そのものは、恥ずかしそうに言った。
「わしは目が悪くて、お前さんがいるのに気がつかなかった」
シーラじいさんも、よほど驚いたらしく、目を大きく開けて、そのものをじっと見ているばかりだった。
「ここは地獄じゃないぞ。見方によっては、そうかもしれんがな。ここでは、一生、自分と向き合って生きていかなければならん。それで、若い者は、みんなどこかへ行った。
ただ、ここは、隔絶されている場所なので、傷ついたり、病んだりしたものが立ち寄ることがある。
だから、ここにいるだけで、世の中のことはなんでもわかる。
ところで、お前さんは、けがをしていても、わしが見たところ、まだ地獄に行くのは早そうじゃ」
シーラじいさんは、それに答えず、「わしはまだ生きていたのか」と独り言のように言った。
そのものは、別に気を悪くしたようではなく、「お前さんは、だいぶ頭を打ってなさる。
お前さんが、ここに落ちてきたとき、もうにおいを嗅いで、近づいてきたものがいた。
死んだものだけではなく、弱っているものにも襲いかかるものがいるのでな。ここは、厳しい世界だからな。
しかし、わしは、『少し待て。様子を見てから知らせてやる』といって追っ払った。
とにかく、元気になってよかった」
シーラじいさんは、それを聞いて、ようやく事情が飲み込めた。
何かがぶつかった後、そのまま、ここへ落ちてきたのだ。そして、しばらく気を失っているときに、マウが夢に出てきたんだ。
そこで、シーラじいさんは、「命を助けていただきまして、どうお礼を言ったものやら」と頭を下げた。
「いやいや、お互い死に際を考える年ですからな。ふぉ、ふぉ、ふぉ」と笑った。その笑い声は、まわりの岩にこだまするように響いた。
シーラじいさんは、国を出たのが初めてだったし、仲間以外とは、そう話をしたことがなかった。それなのに、初めて見るものと話し、しかもそれが老いる話であったのが、不思議な気がした。
しかし、心が通じる気がした。とにかく、このまま終わるわけにはいかない。そこで、自分について話をすることにした。しかし、こんなことは初めてだったので、緊張したが、ゆっくりしゃべった。
最後に、国や仲間を守るべき軍人が、親友を探すためとはいえ、国の外に出たばかりにこういうことになった。もう死んだほうがましだと締めくくった。
そのものは、仰向けのまま、じっと耳を傾けていた。シーラじいさんの話を聞き終えから、「お国ではみんな心配しているじゃろ。ここで元気になり、帰られたほうがよかろう。
それまでゆっくりしていきなされ。マウとやらも、ここに来るやも知れぬ」
「ほんとに何から何まで」
「わしも、ここにいて、栄枯盛衰を見てきた。傲慢になったものは、すべて消え去った。それが世の常というものだ。
お前さんは、たいそう疲れてなさるを忘れていた。それについては、また話すこともあろう」
「わしは、少し用事を思いだした」そのものは、仰向けのまま、海底に砂嵐を立てながら、どこかへ行った。
シーラじいさんは、懸命に話をしたせいか、疲れが出たようだった。
目をつぶって、寝ようとしたが、眠れそうになかった。
「小林君といったね」息を苦しそうにしながら、シーラじいさんが、わたしにたずねた。
「はい小林です。なんとか助かりましたね」
「そうだ。『地獄に仏』とは、こういうときに使うんだろう」
「はい、そうです」
「君に聞きたいことがあるんだ。君は、確か深海図鑑を持っていただろう」
「はい、持っています」
「今のは、だれなんだ」

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