シーラじいさん見聞録
シーラじいさんは、岩陰をじっと見上げていた。
「この岩がわしたちを守ってくれているのだ。今も、この中では、大勢の仲間が生きている。
若い者は、恋をして結ばれる。そして、子供ができる。やがて、愛情をもって育てられた
子供は、それに応えて、固い絆で親や社会につながるようになる。そうして、わしらは4億年生きてきた。
これからも永遠に続くかどうかはわからないが、『変わろう』という気を起こさなければ、どんなことが起きようとも、わしらは生きのこるだろう。わしは、まもなく死んでしまうが、もう思い残すことはない」
シーラじいさんは、岩より堅い言葉が胸に刻まれるのを感じた。
しばらくして、「それにして、突然あらわれた人間と話をしたことで、ちょっと芝居がかってしまったわい」と、少し苦笑した。
「最初、人間と聞いたときは、わしも意識してしまった。成りあがり者とわかっていても、最近は『飛ぶ鳥落とす勢い』だから、人間にすりよってしまった。
としよりは、泰然自若としているものなのに、このわしはどうしたことじゃ。白いひげが泣くというものだ」
「しかし、自分たちが日本人だと名乗ったときは、正直おどろいた。『日本人は、人間のモルモットだ』という記事を読んだからな。避難民になって、いよいよこんなところまで来たのかと思った。
確かに、人間と話をして、わしらを客観的に見ることができたのはよかった。
わしらとて、ここにずっといるわけじゃない。
この何億年の間に、何回も大地が別れ、また一つになった。その都度、海も、大きな変化を受けた。それに伴い、多くの動物が絶滅していった。
そのとき、わしらの祖先は、そこにとどまらずに、『今のまま』で生きることを選びつづけた。
こうして、浅瀬にいたわしらの祖先は、海の奥に向った。人間は、わしらは、2ヶ所にしかいないと思っているらしいが、安全を期すために五つのグループに分かれて進み、それぞれ理想の場所を見つけ、そこに国を作った。
そして、敵から身を守るために、大きな体になった」
そこまで思いにふけっていると、急に我に帰ったように、あたりを見回した。
あらためて、自分が、静まりかえった暗黒の中に一人いるのがわかった。近くで、青も赤の光を帯びたクラゲが、ふわふわと浮かんでいた。
しかし、じっと見ていると、自分が浮かんでいるように感じて、不安になってきた。
「長居は無用じゃ。マウのやつは、どこにいようが、どうなっていようが満足していることだろう。願わくば、わしのことも忘れずにいてくれよ。マウ、さらばじゃ」
シーラじいさんは、頭を下に傾けて動きはじめた。
そして、どんな運命でも、最初は見慣れぬ風景のようであるが、最後にはなつかしく感じられるものだと自分に言いきかせた。
「さあ、早く帰ってマウの奥さんを元気づけよう。わしは、奥さんも知らないことをたくさん知っているからな」
そのとき、背後から、何かかが近づいてきたのを感じた。何げなく振りむくやいなや、それがぶつかってきた。その拍子に体勢を崩し、体をぐるぐる回転させながら、暗闇の中を転がった。
あわてて浮きあがろうとしたが、勢いを止めることができなかった。最初は意識があり、暗黒に吸いこまれるような感覚があったが、いつのまにか意識は遠のき、物体として闇に飲みこまれていった。
わたしたちは、あわてて追った。シーラじいさんは、2メートル近く体重も50キロ以上あるので、まっすぐ下に落ちただろう。
わたしたちは、どこか途中に引っかかってくれたらと願った。あまり深いと、けがの心配だけでなく、水圧が高くなり、シーラじいさんにとって致命的になるおそれがあるからだ。
わたしたちは、手分けをして探すことにした。みんなライトは持っていたが、あわてて岩陰を見逃すことが心配だった。
20分ほどして、多田さんから連絡が入った。シーラじいさんが見つかったらしい。
みんな多田さんがライトを振る場所に急行した。
そこは、トラフといわれる窪地になっており、シーラじいさんは、砂地に横たわっていた。4,500メートルぐらい落ちたようだ。ここなら、海面から1000メートルぐらいで、水圧は100気圧ぐらいだろう。ここなら、まだ水圧が体を押しつぶさないかもしれない。
しかし、身動きがないが心配だった。わたしたちは、見守るしかなかった。
一時間ほどして、シーラじいさんの体がぴくっと動いた。
「大丈夫だ、生きている!」わたしたちは、手を取りあって喜んだ。
シーラじいさんは、意識を取りもどしたのだ。
「わしは死んだのだろう。ひょっとしてマウが迎えにきてくれるかもしれない。
わしはひどくけがをして動けないようだから、それは好都合だ。しばらくここで待っていよう。
マウは、子供のときは弱虫でよくいじめられたが、なかなか優秀な兵隊になった。
あれは忘れもしない。何者かが侵入してきて、子供たちが襲われたことがあった。
わしらは、必死で、そいつを探したがなかなか見つけることができなかった。
体を裏返して、小さな石のようになり、わしらを欺くのだ。
半年間探しまわって、ようやく見つけた。それは、初めて見るタコだった。
ふつうは警告すれば、すぐに出ていくものだが、そいつはちがった。
わしらが取りかこむと、頭についている発光器で、わしらを威嚇した。そして、発光器を少しずつ閉じて、自分が遠くにいったように見せかけることもした。
そいつを見つけると、わしは隊長として、真っ先に向っていった。
そいつは、わしの体に巻きついてきた。ものすごい筋肉で、わしは千切れそうになった。それで、必死でもがくと、わしの鰓を食いちぎった。
もうだめかと思ったとき、マウが後ろからそいつに噛みついた。部下たちも、一気にそいつに攻撃をしかけた。
長い戦いのあと、そいつは、ようやくわしらの国から去っていった。
そのとき、わしは、動くことができなくなってしまった。
『マウよ、わしはもうだめだ。後は頼むぞ』と言ったが、マウは、『これしきのことで何を言っているんだ』と気弱になったわしを励ましてくれた。
そこに三日間ほどいた。すると、徐々に楽になっていった。
部下がいないときに、わしは、マウに、『お前のおかげじゃ』と礼を言うと、『お前を助けたい一心だった』と照れくさそうに答えた。
それまで、仲のよい幼なじみであったが、兵隊としては意気地がないところがあった。しかし、それがあってからは、部下からも一目置かれるようになった。
あの時代は、わしらは輝いていた。あいつのために死ねなかったのが残念だ。
でも、もうすぐ会えるのだ」