事業のヒント

   {   2016/04/03}

我、かくして復活コンサルタントを宣言す。

たそがれの繁華街を一人歩きます。そこには、無数の幸せの形があふれています。
ロシアの作家トルストイは、「戦争と平和」のなかで、このように書いています。「  」しかし、今の私には、自分ほど不幸なものはないと思えるのです。私は、今、自分の会社のドアに弁護士の指示で、28年間続けた会社の破産申請をする旨の紙を貼ってきたところです。それまで、繁華街を歩くと、時折、下りているシャッターに、破産宣告を告げる紙が貼ってありました。それを見て、なんと才能のない経営者だと考えていました。時代を読むことができなかったのだな、子供も小さいだろう、もう死ぬしかないだろうと考えていました。それを今、私がして来たのです。私の事務所は、オフィスビルの中にあったので、通りがかりの人は見ることはないでしょうが、同じテナントの人は、江戸時代の「高札」のように、読んでいることでしょう。「ああ、やっぱりな、おごりすぎたのだから仕方がない」などと思っているかもしれません。

私は、1974年(昭和49年)、広告代理店に勤めた後、塾を始めました。会社という組織に、なかなかなじめず、当時、教育商売として批判されていた塾を、生活をするために「駆け込み寺」としたのです。もちろん、学生時代、教師という職業を考えたときもありました。教育実習で、職員室を出入りしたとき、これはかなわんなと思いました。今考えると、組織のありのままの姿がありました。その学校は、私が卒業したので、知っている教師が大勢板のですが、校長は、教師をはげしくののしり、教師は、陰で校長などの上司の悪口を言っていました。その学校に20年もいる教師(芸術系が多いようですが、)は、我関せずの態度で、本人も周りの教師も、全く関知しないように振舞っていました。まさに会社などの社会の構図そのものであった。

それに嫌気がさしたこともあろうが、青年にありがちですが、自分には才能があるように感じて、教師を志望しませんでした。広告代理店では、売上げを至上主義にする「組織のうっとおしさ」がいやになって退職しました。その後、長い間、組織をどうするべきか悩んだのは皮肉でした。そして、始めたのが塾商売でした。しかし、心のどこかに、「良心の痛み」を感じていました。当時、塾は、「必要悪」といわれていましたし、公教育を邪魔する存在でした。

確か、当時の文部省は、塾は必要ないというキャンペーンを張っていたと記憶しています。私個人は、「先生」と言う存在に独特のイメージを持っていました。私が子供の頃(昭和30年代)は、学習塾はあまりなかったし、そろばん塾が流行っていた。つまり、私たちは、そろばんを習っていたのである。そろばん塾では、教える大人を「先生」と呼んでいたが、私は、「先生」は、学校で教える人だけと頑なに考えていた。

特に、その「先生」が、兵隊に行ったときの卑猥な話をしたり、後で、詐欺で捕まったことを聞いたりしたので、そのイメージは固まってしまいました。しかし、私は、他にすることもなかったので、塾を始めましたが、「先生」と呼ばれるのが、内心いやでいやでたまりませんでした。しかし、団塊の世代である私には、教育に考えるところがあったので、「落ちこぼれ」という言葉に反発するという青臭い考えで、「勉強についていけない子供だけを教える個人指導」とやってしまったのです。これは、社会的に受けるぞと考えて、そのまま2,3年続けましたが、全く採算に合いません。マスコミは、時々取り上げてくれましたが、生徒がこないのです。

今の私なら、塾も商売と考えて、「進学塾」と標榜します。自分の子供の成績が悪くても、親は、進学塾にやります。当時の私には、それがわからなかったのです。さらに、学生アルバイトも、塾教師では大学も扱ってくれませんから、新聞広告代ばかになりませんでした。
そこで、何か手を打たなければならないと考えて、究極の個人指導である家庭教師を始めましたが、それも、多くの会社がありました。結局、募集しても、仕事がないから、アルバイトは続かない、また募集して経費がかかってしまうという悪循環でした。
ちょうど、その頃、長男が生まれていて、妻は、実家で働いていましたが、保育園などは、日曜日に運動家や音楽会があると、必ず月曜日は代休になりました。月曜日が休みでも、世間は困りませんでした。なぜなら、多くの妻は、年中休みだからというわけです。私の場合のように、「共稼ぎ」をしている家庭は、困ったことでしょう。妻は、以前に保母をしていた人を見つけて、その日に預かってもらうことにしました。ただし、ただというわけには行きませんでしたから、謝礼に困りました。5千円は安いか、1万円は、家計を圧迫するしという次第でした。そこで、私は、アメリカでは、子供を預かるのをベビーシッターといって、中学生でもアルバイトをしているらしいことを思い出しました。これは、商売になるかもしれないと、また山っ気を出しました。要するに、家庭教師派遣の乳児版でした。進学教師を派遣しているなら、ついでに乳児もやってしまえという発想でした。当時は、人手不足で、あちこちで事務員が足らないということを聞いていたので、それなら、会社へスタッフを派遣するのはどうだろうかとも考えました。しかし、こいつは、ちょっと手強いぞ、狸オヤジたちに、引き抜きをやられてしまうに違いないと考えました。しかし、会社のほうが、需要はありそうだがなと迷いましたが、「とりあえず」、ベビーシッター派遣を先にして、次は、スタッフ派遣だと計画しました。
この頃から、新しいサービスを考えるのが好きになりました。ひょっとして、儲けることより、「新しさ」に惹かれるのかもしれませんが、これが、今度の仕事に役に立つかもしれません。アイデアはいいけど、利益はどれくらい、どんなクレームが繰るかという問題を考えるのですから。
しかし、半年の間、ベビーシッター派遣の注文はなく、家族や親戚から、子供もいるのだから、そろそろ勤め口を考えろという声が聞こえてきました。誰かに、子供を見てもらいたいのは、山々だけれど、どこの馬の骨かわからない者には頼めない、しかも、留守にして、大丈夫だろうかということだったのです。しかし、一度頼むと、安心して出かけられるし、用事もスムーズに済むことがわかると、どんどん利用が増えてきます。奥様が医者や弁護士の場合、毎日の利用になってきます。また、公務員は、収入が安定していますので、保育園が決まらない場合は、自分の給与より、私の会社への支払いが多くても、半年か1年は、継続的に利用されました。
そして、それが、マスコミに取り上げられるようになると、利用は、ますます増えてきました。さらに高度成長が進み、私の会社は、毎年飛躍的に伸びました。前年月の最高額が、次の年の月平均になるという状況でした。税務調査のときも、税務署員が、正直に申告していましたので、その伸び方にびっくりしていました。私も、商売がうまいなんて言われましたが、あっけに取られているのが正直なところでした。