シーラじいさん見聞録
ボスは続けた。
「おまえたちが助けあって、『海の中の海』の使命を果たそうとしていることがわかった。
その決意は一人一人の心に宿っている。それなら、ここだけでなく、自分が決めた場所でその使命のために努力してもいい」
ボスは、ここを出たい者は出てもいいと言っているようだ。
しかし、誰がそんなことをするのだ。おれたちは、長老から訓練生まで全員、「海の中の海」のために命をかけようとしているのだ。
家族や親戚は、ここに入ることを認められたおれたちを誇りに思っている。きっと近所におれたちのことを自慢していることだろう。
だから、おれたちが見回りにいくと、どんな老人もまずおれたちの話を聞く。
そして、若くても、海の叡智を体現した者の言うことはまちがいないと思うのだ。
そうやって、海は何十億年も続いてきたのだ。もちろん、これから未来永劫もな。
しかし、今、妙なことが起きはじめている。今立ちあがらなくてはいつ立ちあがるのだ。
何が起きようが、どんな怪物がやってこようが、みんなが、一つになって、世界のために戦うのだ。自分の命など何が惜しかろう。みんな心でそう思った。
「もし出て行く者がいても、絶対誰何(すいか)してはならぬ」
ボスは、そう言うと、大きなうねりとともに消えた。
ボスは、おれたちのことを心配してくれているのだろうが、それは杞憂というものだ。
ボスにもっとおれたちの力を見せてやろうじゃないか。
誰も、みんなを見ると、自分の思いがさらに強くなっていくのを感じた。
みんなのためなら、どんな怪物も恐くない
その思いは、広場全体に広がった。
その思いを言葉にするかのように、中堅の見回り人が、「ボスが守ってくれるのだ。おれたちは、何も心配することはないじゃないか」と叫んだ。
すると、その声に反応するように、「シーラじいさんの分析では、もうニンゲンとクラーケンの戦いははじまっているのだ。おっつけどちらかが勝ち、どちらかが負けるだろう。
そうなれば、今までと同じように、平和のための使命を続けることができる」
「そうだ」、「そうだ」広場全体に歓声が響いた。
その喚声が少しやんだとき、「ちょっと待ってくれ」という声が聞こえた。
声のほうを見ると、同僚の見回り人だった。広場は静かになった。
「ちょっと待ってくれ。しかし、どちらかが勝ったら、そいつがここに入ってくることはないのか?」
さらに自分たちを鼓舞してくれる言葉を期待していた者は、すぐに「何を言っているんだ!」と口々に叫んだ。
「ボスは、おれたちを守ってやると言ってくれたじゃないか!」
「どんな怪物が来ようとおれたちが戦わなかったら、ここは、永遠に失われてしまうんだぞ!」
気弱になった心は、他の者でも、自分でも絶対許さないという雰囲気が広場を包んでいた。
しかし、その抗議の声は、まだすべてを消しさっていなかった。
「実際、クラーケンがここに入ろうとしているじゃないか」別の者が叫んだ。
「そうだ、ニンゲンだって、ここを見つけたら、科学を口実に、おれたちを殺すかもしれないんだぜ」
すると、見回りの幹部が前に出た。部下たちは黙った。
「みなさん、我々見回り人が先頭に立つから心配しないでください。やつらが入ってきたときのために、狭い場所をさがしておいてださい」と穏やかに言った。
「それじゃ、お前たちは配置につけ」と言って、部下を急がせた。
ボスは、見回り人の集りでも、経験の浅い連中が何を言っても、いつも楽しそうに聞いていた。
そして、議論が伯仲して、意見を求められても、「自分の考えをもっと言ったらいい」と答えるだけだったが、今は、「海の中の海」の不安を早く取りのぞかなければならないと判断したのだ。
その後時間のある者は毎日のように広場に集ってきた。
それは、みんなの顔を見ることによって、自分の中に生まれるいやなもの、不安や恐怖などをつぶしてしまいたいという気持ちのあらわれのようだった。
しかし、それが逆になった。そこに集まる者は、何かおかしいのに気づきはじめたのだ。
中堅クラスの見回り人、仲裁人などがここを出て行ったという話を聞くことになったからだ。そして、5人いる長老の2人もいなくなったというのだ。
オリオンたちが第二門で警戒しているときも、すっと第一門に向う影があった。しかし、声をかけてはならないと命令されていたので、誰も留め立てしなかった。
ある日、オリオンが配置についていると、自分で弱虫だと言っていた訓練生が近づいてきた。そして、あたりを確認してから、オリオンに話しかけた。
「ぼくも、きみのお陰で弱虫を克服できたようだ。今では、誰よりも先に前にいくようになったよ」
「ああ、知っている。ぼくも油断すると負けてしまうもの。ところで、今日はどこの場所を警戒するんだい?」
「いや、ちょっと考えることがあって」
「どうしたんだ?」
「ボスがここを出ていってもかまわないと言っただろう?」
「そうだった」
「長老までも出ていった」
「うん」
弱虫は、息を深く吸いこんだかと思うと、「ぼくも出ていくことに決めたんだ」と言った。
オリオンは、その訓練生をじっと見た。そして、「じゃ、気をつけていけよ」と急がせた。
「ありがとう。もう弱虫は直ったんだけど、兄弟は女ばかりなので、仕方がないんだ」
その顔は泣きそうだった。
「ボスは、自分の場所でがんばることも大事だと言っていたから、それもすばらしいことだ」と励ました。
「きみに、そう言ってもらったらうれしい」
「それじゃ、さようなら」
「さようなら。また帰ってくるから」
訓練生はさっと姿を消した。