肩書

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「肩書」
イチローを「高卒の星」とか、石川遼を「勤労学生の花」なんて肩書をつけて考えへんやろ。
それは、「高卒」や「勤労学生」のイメージをはるかに超えた存在になったからや。
プロ野球選手やプロゴルファーになるのがやっとこせゆうのも、それになれないのもゴマンといるわけやけど、2人の話を聞いていると、成功するのはやっぱり地道な練習みたいやな(石川遼の場合は、球は動かんけど、イチローは、川上哲治のように止まって見えるのやろか)。
選挙が終ったところやけど、国会議員とゆう肩書が生まれてはじめてついたもんいるし、それがなくなって、「唯の人」になったもんもいる。
「唯の人」は、裸で人前に出るような気分やろか。
天才チンパンジーのパンくんが、メスのチンパンジーとデートするとき、いつも着ている服やおしめを取ると、飼い主の宮沢さんが、「パンくん、見えてる!」とからかうと、股間だけでなく、男のくせに胸も手で隠すけど、あんなふうな気分やろか(ぼくも、25才から社長とゆわれてきたから、その「着ぐるみ」でぬくぬくしていて失敗したようや)。
定年なんかで名刺(肩書)がなくなると、大企業の部長や課長クラスが一番秋風が身に沁みるらしいな。
上岡龍太郎は、横山ノックのお別れ会で、「ノックさんは何でもなりたがる人でした。
国会議員、大阪府知事、最後には被告人になりました」と笑わかしていたけど、ノックの場合は、肩書がほしかっただけのような気がする(ぼくも、管財人に、刑事告訴寸前だったとゆわれたけど)。
どの業界にも、肩書なんかなくて名前だけの名刺が通用する人がいるけど、フツーの人も、みんなそんな名刺を持っている(ぼくらは、「お宅、誰ですか」と聞かれるけど)。
肩書がなくなったら(年を取るとみんなそうなる)、何か着とかんと恥ずかしいのか、自分で自分のイメージを作るのや。世間は自分のことをこう思うているやろなとか、自分はほんまはこうなんやとゆうのがそのモデルになるのとちがうか(世が世なら、わしはこうや。おまえらとは違うとゆうような)。
どっちを取るかはその人の個性やけど、自分で自分の首を締めんようにしたほうが楽や。
なかなか世間にとらわれずに自分を見るのはむずかしいもんや。
それなら、股間と胸を隠すぐらいの肩書をつけたほうがええ(肩書は金を生むけど、そのためには、努力と金、そして、菊水丸のゆうようにコネがいるから、大層なもんはむずかしいやろけど)。
ぼくの場合は、叔母の成年後見人と相続人とゆう肩書かな。おばちゃんの役に立とうと毎日走りまわっているで。あとの楽しみもあるけど。
扇谷正造は、「諸君!名刺で仕事をするな」とゆう本を書いたけど、死ぬまで名刺がいると思う。別に印刷がしてなくても。

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