試食
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「試食」
ぼくは、おとしよりの食事を作るビジネスもしているので、調理師、栄養士ともよう話をする。
スーパーなどで仕事をしてきた話では、試食をがつがつ食べる子供がいても、絶対断ってはいけないとゆうお達しがあるらしい(「もっと食べ。好きなだけ食べ」と子供をけしかける親もいるとのこと)。
昔、週刊朝日の「デキゴトロジー」とゆう欄に、「デパートの食品売り場に、毎日試食だけするのが来ると、目で合図をして、一斉に隠す」とか書いてあったのをおぼえているけど、今はちがうらしい。
確かに、わずかな肉やソーセージ、オレンジで、「試食させたくなかったら出さんかったらええんやろ」などと難癖をつけられたり、挙句の果てに、「店長出せ」とかゆわれたらたいへんやとゆう思いがあるのやろ(試食を出しているのは、スーパーの出入り業者やし、「これおいしいわ。お母ちゃん買うて、買うて」と子供がゆうと、試食販売がうまくいったゆうことやろし)。
ぼくは、毎日スーパーに行くけど、確かに試食のまわりには子供がたかっている。またカートにも土足で子供を乗せている親も多い(子供を乗せるためのカートでも、おもちゃのハンドルの上に靴のまま乗っている)。
最近は、モンスターとゆう親が出るらしいので、「さわらぬ神にたたりなし」とゆうわけやろな。
今は、家に帰っても食うもんに困っている家なんかないやろと啖呵を切っても、目の前にただの食べもんがあると、なんかそわするのは認めるわ。
4,5年前までは、スーパーに行ったことはほとんどなかったけど、飲みに行くと、注文した料理は全部食べんと気がすまんかった。
個人の「食い意地」は、「出されもんは全部食べるのが正しい」とゆう時代の考え×家庭の貧富度から出てくるもんやろか。
今は、健康のために残すという知識が浸透しているけど(ぼくでも、ラーメンのスープはなるべく残すようにしている)、高カロリーのもんがなんぼでもある時代やから、貧富度に関わらず、「食い意地」の環境はますますよくなっている。かくして、総計1トンはあろうかとゆう4,5人の親子を目にするわけや。
ところで、試食はスーパーだけでなく、社会に出ても、試食もいっぱいあることを、子供に教えときや。
「どの試食が一番高かったか」とゆうテレビ番組があるけど、試食は、「つまみ食い」に発展することが往々にしてある。
わずかなもんを「つまみ食い」して一生を棒に振る役人や会社員もいるんやから。
また自民党のある総理大臣は、「つまみ食い」したもんがうまかったもんで、片手分の金で買おうとしたが、断られた挙句、3ヶ月でやめる羽目になった。
もう一人の総理大臣も、もっぱら銀座で「つまみ食い」をしていたが、こっちも、いつも500万円を払っていたそうな(殿様は今も金持ちや)。
「つまみ食い」代を払えたらええけど、余裕のないもんは、「試食」で味がわかるようにならんとあかんな。
自分の人生をうまくやるためには、「試食」も大きな要素になるらしい。それなら、子供に、「試食」の仕方を教えることも必要やろか。