原戸籍(2)
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「原戸籍」(2)
ぼくの血統書がいるのは、養子でも行くのかてか。そうやねん、ようやくぼくももらい手が見つかった。あほか、ちがうわ。
親が死んで、恥ずかしいぐらいのもんを相続するためにも、ぼくが正当な相続人かどうかの証拠がいるのや。
それには住民票や戸籍謄本だけではあかんらしい。世の中には、先妻が何人もおって、子供も多いとゆうような家があるけど、財産があるほど相続でもめることになる。
何十代と続いている旧家でも、最近は、戸主が決めるとゆうわけにいかへんのやろな。
そこで、「原戸籍」正式には「改製原戸籍」ゆうもんが必要や。
「原戸籍」とは、戸籍法が何回も変わったから、その前の戸籍、旧戸籍のことやな(「現在の戸籍」とゆう誤解を避けるためか、役所では、「はらこせき」とゆうている)。
ようするに、こいつの親は誰や。その親は誰や、はたまた、その親の親は誰やとゆうことがわかる。
雅楽しちりき奏者で有名な東儀秀樹の家系は、聖徳太子の時代からわかるらしいけど、ぼくら庶民は、つい最近まで苗字もなかった(「絢香」とか「hitomi」」とかゆう歌手の家は、まだ苗字がないのか、なんてね)。
とにかく、父親、母親、祖父の原戸籍がいるとゆうことやった。祖父のことはかろうじて覚えているけど、聞いていたとおり養子やった。
しかし、安政4年生まれの祖祖父や、元治元年生まれの祖祖母は知らん。相続のことを忘れて、もっと知りたくなったので、原戸籍をどんどん取った。
祖祖母は、士族の生まれやと聞いていた。曾祖母の母親の欄は、空白でバツがあった。
これがどうゆうことやろと興奮してきた。まるで、クンタ・キンテのようや。
大正11年生まれの叔母に聞いたら、「そうや。蔵には金銀が山のようにあったと聞いている。おばあちゃん(曾祖母)は早う死んだけど、その妹はよう遊びにきていたで」と証言する。
でも、大正8年生まれの大叔父は、「ちがう、ちがう。ふつうの家やったらしいで。母親の欄は、戸籍のつけ方が変わったときに役所が忘れたんちがうか」と言う。
結論は、ようわからへんけど、わかったことは、「本家の五男やった曽祖父は、33才で結婚、分家した(当時としては遅かった)。
そして曾祖母の間には、男の子が二人いたけど、両方とも、2,3才で死んでいる(その後、ぼくの祖母が生まれた)。それで、占いに聞いたら、『この家は、男の子が育たん家や。それで、鬼門に大きな石を置いたらええ』ということらしくて、今も、玄関の北北東に大きな石がある(100年以上立っていることになる)。
墓地には、小さな墓石が二つある。それで、祖母は、養子をもらうことになる」ということや。
ぼくの「ルーツ」は、こんなもんやけど、明治や江戸の人間も、どんなしゃべり方をしていたか知らんけど、一生懸命生きていたのがわかる。
曽祖父の父親も調べるつもりやけど、人は、せいぜいおじいさん、おばあさんぐらいしか見たことない。
しかも、現代は、長寿の時代やゆうても、おじいさん、おばあさんは、病院のベッドにいて、見舞に行くぐらいのもんやろ。
逆にゆうたら、ぼくらのことをおぼえていてくれるのは、孫までやな。
ぼくは、4人子供がいるけど、孫はまだや。せやけど、100年先にはゆわれとるんやろな。
「パパ、この人だれ?」
「この人は、パパのおじいちゃんだ。若いとき苦労して事業を成功させたけど、年取ってから、仕事をほったらかしにしたり、女に血迷うたりして、寂しい人生を送ったらしいよ。お前も、女には気をつけるんだよ」
「はーい」
何で、孫や曾孫から、関東弁で、そこまでゆわれんとあかんねん。
とにかく、人は原戸籍から出てきて、また原戸籍にもどる。