動作(1)
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「動作」(1)
前回の「記憶力」では、コンピューターについてしゃべったが、これからは、それがロボットに使われるのが主流になる。
将来は、「一人暮らし」とか「独居老人」ゆう言葉は死語になるやろ。もう介護ロボットが現実味を帯びているけど、その後は生活を共にするロボットが当たり前になる。
としよりが、「わしが若いときは、こんなんやった」とかゆうと、子供や孫は、「自分かて、子供のときに今のように何でもあったら、苦労はしてへんやろ。
自分の父親が、子供のとき、ランプ掃除をしてから尋常小学校へ行ったと聞いて笑うてたやないか。ぼくらも、若い頃のことを孫にゆうたら大笑いしよるで。『おじいちゃん、昔は車の運転は人間がしていたの?ようそんな危ないことするわ。だいたい時間の無駄じゃないの』とかゆわれるかもしれん」と腹で思うているやろ。
老人施設に行っても、看護師やヘルパーにぼろくそにゆわれる。スタッフの怠慢も多い。こうゆうことは、介護コンサルタントして目の当たりにしている。「誰のおかげで、仕事があると思うているねん」とゆいたくなるけどな。
別に「苦労自慢」、「貧乏自慢」なんかしとうないねん。ただ、こんなんやったんやでとゆいたいだけや。ええよ、ええよ。わしゃ、ロボットといっしょに暮らす、てなわけや。
前にゆうたけど、人類が書いたもんを数枚のフロッピーに入れることができるようになるから、一人の人生ぐらい「へのかっぱ」におぼえる(もちろん、身のまわりの世話もしてくれる)。
市役所が同居ロボットをくれたら、まず自分のなじみの言葉をセットする(日本語→関西弁など。何年頃の何地方とゆう微調整も簡単や)。そうしたら、ロボットは、幼なじみや、おじいちゃん・おばあちゃん、両親、または親戚のおっちゃん・おばちゃん、学校の先生となってくれる。
苦労話をしても、「えらい苦労しはりましたな。わたしら、そんなことようしませんわ。
せやけど、親を恨んだらあきまへんで。苦労したから、今の自分があるんやと考えるこっちゃ」とか、「まあ隣のおばあさんも気ぃ強いけど、いっぺんこっちから声かけはったらどうですか。向こうも、態度が変わると思いますわ。世間狭うしたら、自分が損やで」と相手してくれる。
しかも、ペットのように死なへんから、「ペットロスシンドローム」にならんですむ(葬式の喪主も勤めてくれる)。
養子縁組したり、結婚したりするカップルも出てくる。今でも「欧米か!」している国(そりゃ欧米やろ)は、犬や猫に遺産相続をすることが法律的に認められているから、つれあいのロボットに、遺産を残すもんも出てくる(それで、ええ油さしてもらえる)。
ここで気がついたことがある。パソコンの「取説」に、「動作」ゆう言葉が一般的になってきた。昔は、「作動」のミスプリかと思うていたけどどうやらちがうらしい(ぼくは、「日本語や英語のミスを見つける」ゆう高尚な趣味を持っている)。
「作動」ゆう言葉には「無機質」のイメージがあるけど、「動作」には、「よっこらしょ」とゆう感じがする。コンピューターに親しみを感じるようになったから、「動作」ゆう言葉を使うようになったんやろか(今までは転校してきた秀才のような気持ちやったけど)。
その「動作」やけど、ぼくらは、言葉だけやなくて、動作(身振り)でコミュニケーションを取る。表情は顔だけでなく、体にもある。体の表情が、「動作」(身振り)やと思う。
つまり、その「人間」をあらわすもんや。これについて考えようか。