記憶力(3)
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「記憶力」(3)
そうゆうわけで、おぼえんでもええ時代になった。ネットで、ありとあらゆるもんが調べられる(北朝鮮のロケット基地まで見られるらしい)。
電子辞書も、100冊以上の辞典が入っている。電話番号も、ケータイになんぼでも登録できる。
昔は、お客さんの電話番号を数百ぐらいおぼえている事務員がいた。
「梅田花月」の前にあった「ケニア」ゆう喫茶店に、10人以上の団体で行っても、注文をすべてわかるウエートレスがいた(今は端末機に入れているから客を見いへん。「たらこスパはどなたですか」とかゆうけど、「さっきお前にゆうたやないか。確認したんは何のためや。『これでよかったですか』と過去形やったから、もう忘れたんやな。今は忙しいからな。そりゃ、ぼくが悪かった」と思いながらも、「こっちです」ゆうて受けとるのがぼくのええとこや)。
つまり、パソコンでゆうたら、「ハードディスク」(こいつがなんでもおぼえているやつや)を使わんでええから、自前のんはだんだん衰えてしまうわけや。
「メモリー」は今いる情報をおいとく場所や。これは「人生経験」や。これを使ってぱっぱぱっぱと仕事をするのが、「インテル入っている」のCPUや。これが「頭のよさ」なんやな。あとは、「ウインドーズ」のようなOSは、その人の「人間性」とちがうか。
せやから、「ハードディスク」一つぐらいなんでもない。
医学的にも、創造性は年令に関係ないらしいことが証明されている。いや、大事なもんを選ぶ「メモリー」やCPUは、年行ったほうがええかもしれん。
せやけど、たまにはハードディスクを動かすこともええことや(いざゆうとき必要やから)。
円周率をおぼえるのは辛い。霧の中をやみくもに歩くようなもんや。それを趣味にしている人に聞くと、おぼえ方は、ぼくらが、歴史年号をおぼえるときのような「こじつけ」らしいな。「いい国作ろう」で、何万桁もよう頭に入るもんや。
ある大学教授は、知らん言語でも、一晩徹夜したら通訳ができるぐらいになる能力を持っている。せやけどすぐ忘れるらしい。つまり、メモリーとCPUがすごいのんやろ。
ところで、ぼくも、最近やっているで。
若いときは、毎日飲んでかえっとったから、南海高野線の駅は空(そら)でおぼえていた。ナンバ、今宮戎、新今宮、萩之茶屋・・・。おぼえておかんと降りる駅を忘れるからな。
今は、南米の話を書いているから、南米の国は全部言える(ウルグアイはどこか知っているか)。
それが、案外自信になって、どこかへ行ってもおぼえるようにしている。スーパーにある絵で、牛や魚の部位もおぼえた。肩、肩ロース、ロース、フィレ、ばら・・・(「ばら」 の後ろにサーロインがあるんやで)。
今年は地質時代が必要やから、全部おぼえた。カンブリア紀、オルドビス紀・・・デボン紀・・・ジュラ紀、白亜紀・・・完新世(「カン」が鋭い子が、「オルで」てな調子や)。
寝るときそれらを呪文のように唱えている。「まだあほになってへんでよかった」と思えるし、バクレリアから、40億年かかってホモサピセンスになったのを10秒で確認できるから、熟睡できる。
おぼえるのは、星や花でもなんぼでもある。せやけど、アフリカや恐竜はやめや(寝られんようになるおそれがある)。
いずれ、今日の昼ごはんに食べたもんも、日付もわすれるようになるやろ。
岡本太郎は、ときどき自分の名前も忘れたらしいけど、絵を描くことだけは忘れんかった。
「知らぬが仏」ゆうけど、「忘れるが仏」が一番ええ生き方かもしれん。
そして、自分もいつか忘れられる。この前「天声人語」に書いてあったけど、アフリカでは、人は、死んだときと、その人をおぼえている人が死んだときの2回死ぬと信じている部族があるらしい。それは、ぼくも前から思うていた。
おじいちゃん、おばあちゃん、去年死んだ母親をおぼえているもんは少なくなっていく。そんなふうにしてみんな忘れられていく。
ぼくも、おぼえてもらっているうちは、「ええ人間」でありたいけど。