記憶力(2)
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「記憶力」(2)
前回は、話の途中で人の名前を忘れる、なんとか思いだそうとしても、関係するもんの名前も出てこんゆうた。あり地獄に落ちたような気がするけど、ほっといたら奥歯にキムチが挟まったようでキショクが悪い。
記憶力は、子供のときから求められてきた能力や。学校では、「記憶がええことが、頭がええ証拠」とゆわれてきたもんな。この何十年、大抵のもんは、そんな訓練はしてへんけど。
ところで、記憶ゆうのは都合ようできている。痛いところをつかれると、「あいつに、あんなことゆわれた」と勝手に頭に入る。他人を怒らしてもあんまりおぼえてへん。
元々人間は、ようおぼえているもんらしい。
母親の胎内にいるときの記憶がある2,3才の子供がいる。暗かったとか、ザーザーゆうとったとゆうている。胎児の様子を見る技術が発達していて、笑うたり、目ぃをぱちくりしたりしているのがわかっているから、当然頭も働いているのやろ。
三島由紀夫の小説にも、「生まれたときのことをおぼえている」のが出てくる(芥川の「河童」では、河童の胎児に「出口」から話しかけているけど)。あんなん作り話やと思うていたけど、そうでもないらしいな(きっとお父ちゃんの悪さもおぼえているで)。
乳首(哺乳瓶のでも)をじょうずに吸うのも、子供のときしかでけんらしい。同じように、持ってうまれた記憶力で、東海道線の駅とか万国旗とか全部おぼえている子供がいる。
きわめつきは円周率の暗記や。どこかの税理士さんやったか、8万桁以上の世界記録を持っている。とても、人間わざとは思えんな。子供のときの能力を思いっきり伸ばしたんやろな。
最近は、本人や関係者の話題はおぼえているのやから、そんなに老化は進んでいないと開きなおっている。大体、歴史の年号をおぼえることよりも、それがなぜ起きたかを考える力が大事や。これには、人生経験がいる。歴史上の人物ゆうても、ぼくらとおんなじように、征服欲、憎悪、やきもちなんかをいっぱい持っていたからな。
せやけど、これは、なんとかせんとあかん。「あの~」、「この~」ゆうとったら、タレントやスポーツ選手の話が進まんのでしんどいわ。
現代は、記憶力にとっては辛い時代や。もちろんコンピューターの時代やからや。パソコン、電子辞書があるから、なんにもおぼえんでもええようになった。
将来は、今まで人類が書いた本を数枚のディスクに入るようになるんやて。今でも、パソコンが自分の頭や。「魔がさして」、ネットで見たもんでも消せへん。パソコンは、その持ち主の頭の程度、嗜好、性格なんかもわかるちゅうこっちゃ(この世におさらばするときは、パソコンの処理をしとかんとかっこ悪い時代になった)。
ファミレスの駐車場に置いといた車からパソコンを取られた知りあいがぎょうさんいる。
ドロボーは、昔は本体を中古屋に売っていたけど、今は本人に情報を買いとらせる時代や。
自分の身を守るために、子供時代の「あほテストシンドローム」が今こそ大事や。