政党

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復活ノート

「政党」
私が借りている家の隣は空き家です。主人はある大手電気メーカーに勤めていますが、しばらく転勤をされています。
郊外にあるベッドタウンですから、どこの家にも車があります。1台という家はほとんどなく、普通2台で、それ以上の家も相当あります。
そして、親戚や友人が来ると、「路駐」となるのですが、その空き家の駐車場に車を止める人がいます。
もしその家が、数日いないだけなら、そんなことはしないでしょうが、まだ何年も帰ってこないという「安心感」があって、みんなで晩餐を楽しんで、熟睡できるということなのでしょう。
いや、今回の地震や原発事故で、国家というものは、私の家の隣の空き家のように思えて仕方がないのです。
ある家はある人のものであるのと同様に、国家は国民のものであることは、誰でも否定しませんが、長い間留守にしていると、誰のものかわからなくなり、横着者が自分のもののように振舞うようになるのです。そして、危険物を置くこともあります。
今回の震災で、外国の新聞は、東北の被災者が、暴動を起こしたりせず、忍耐強いことを賞賛していますが、最近は「東北の人よ、もっと怒れ」というようになりました。
また、原発のことでも、外国のマスコミなら、賛成派、反対派の意見を同等に扱うのにという意見があります。
戦争への対応でも、どのマスコミも(特に新聞は)、戦争に協力したことを深く反省したのではなかったのか。
自民党のポスターには、「地方が原点」とあります。そういう面もありますが、都会と田舎と二極論では、またこういうことが起きませんか。
そろそろ家に帰りませんか、国家という家に。
日本人は、「国家のために死ね」と教えられて、あのような悲惨なことになったので、その後遺症か、国家と聞けば耳を塞ぐようになりました。それをいいことに、横着者が居座るようになってしまったのです。
常に国家の道筋を考える政党を望みます。そして、国民に、賛成派と反対派の意見を明示します。
「国民と政治家のレベルは同じ」といわれるのに、なぜ国民は政治家を糾弾するのか。
国民の総意が反映していないのは、反映する政党がないからです。
原発は廃棄すべきかどうか、そして、日本はどうあるべきか、日本人全員が今ほど考えているときはないでしょう。どんなことになっても日本を出ることはできないのですから。
それを汲みとるのです。そして、議論を尽くします。原発を残すとなっても、それは尊重しなければなりません。日本人の総意ですから。
そういうふうに、政治が進めば、国民と政治家、そして、国家が同じレベルになるのではないでしょうか。誰か政党を作りませんか。